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第21節『犬居城へ』

第21節『犬居城へ』

夜はまだ明けきってはいなかった。

兵舎の中は、夜明け前特有の湿った冷気に包まれている。外から聞こえるのは、早立ちの鶏の鳴き声と、冷たい風にきしむ木戸の軋みだけだった。

源次は目を閉じたまま横たわっていた。だが、眠ってはいない。周囲からは、仲間たちの浅い寝息や、悪夢にうなされるような寝言が漏れている。鎧を着たまま仰向けになった者は、重みに耐えかねてか時折寝返りを打ち、そのたびに胴丸の板金がかすかに鳴った。

「……」

源次は息を殺し、ゆっくりと身を起こした。

胴丸を手に取り、肩に掛けた瞬間、鉄の冷たさが皮膚に突き刺さるように伝わってくる。胸当ての留め紐を結ぶと、まるで自らの心臓が鉄に押し潰されるような圧迫感があった。重さは実際に十五貫も二十貫もあるわけではない。だが、ただの鉄と革の寄せ集めが、なぜこうも命の重さに化けるのか。

「……はぁ」

深く息を吐き出し、槍を握り直す。木の柄は既に手に馴染んでいるが、それが心許なさを少しも拭ってはくれない。

やがて、兵舎の中でぽつりぽつりと物音が増え始めた。

「おい、もう刻限か」

「くそっ、腹が減ってるのに飯も喉に通らねえ」

「今日こそ一番槍を立ててやるぞ……」

虚勢を張る声もあれば、震える手で小袋を懐に押し込む者もいる。袋の中身は、妻や子が書いた手紙か、それとも御守りか。誰もそれを口に出すことはない。

源次は無言で仲間たちの顔を順に見渡した。

――このうち、いったい何人が生きて戻れるのだろう。

知識として知っている。犬居城は険しい山城で、徳川勢は大きな損害を出す。史料に名も残らぬ足軽たちの多くは、土に還るしかなかった。

「……」

胸が詰まる感覚に、思わず視線を落とした。

その時、兵舎の入り口に重吉の影が揺れた。

「行くぞ」

短い一言の後、老兵は源次をちらりと見た。言葉はない。ただその眼差しには、「死ぬな」という重みが宿っていた。

源次は小さく頷き、黙って槍を背負い直す。

城門を出る時、まだ朝日は顔を覗かせていなかった。井伊谷の谷間には、夜の名残が深い影を落としている。

石垣の向こうに広がる空を仰ぎ見ながら、源次は心の中でひとり誓った。

――直虎様。必ず、一人でも多くを生きて帰らせます。そして俺自身も。

行軍は、土を踏み締める無数の足音から始まった。

「ずしん……ずしん……」

列を成した数百の足軽が、道を進むたびに地面が揺れるようだった。乾き始めた土が踏み固められ、やがて黄土色の埃が風に乗って舞い上がる。

源次の鼻腔に、その埃がざらりと貼り付いた。鎧の隙間に入り込み、喉の奥を乾かす。隣を歩く兵の鎖帷子が擦れ合い、甲冑の小札が小刻みに鳴った。

行軍の列を見下ろすように、指揮官の中野直之が馬上にいた。引き締まった顔で全軍を見渡している。だがその視線は、何度も源次の背に刺さってくる。

「……やっぱり警戒してやがる」

背筋に冷たいものを感じながらも、表には出さない。未来を知るという得体の知れぬ力を、もし勘づかれてはならない。

周囲では、兵たちが緊張を和らげるように口を開いていた。

「犬居城を落としたら、きっと褒美だ。銭でいい、腹いっぱい酒が飲みてぇ」

「はは、俺は銭より女だな。久々に温もりが欲しい」

「ばか、まずは首の一つでも取ってから言え」

笑い声が、土埃の中にかすかに弾けた。だがそれはどこか空々しく、無理に作られたものに過ぎなかった。

源次は笑みに加わりつつも、心の奥では冷ややかに仲間を見ていた。

「あいつは足取りが軽すぎる。興奮で持ってるだけだ……。こっちは逆に、顔が真っ青だ。最初に崩れるかもしれん」

無意識に、兵一人ひとりの性格や弱点を心に刻みつけていた。戦場で、誰を助け、誰を抑えるべきか。そうした観察は、未来を知る自分だからこそ必要だと信じていた。

「……犬居城は天険だ。徳川軍は力攻めで手痛い損を受けた。井伊は後詰に回るだろう……だが、何も起こらんとは限らない」

脳裏に浮かぶのは、歴史書で見た一行の記録。それが今、この現実にどんな形で迫ってくるのか。わからぬからこそ、恐怖は増す。

楽観的な笑い声が、源次には別世界の出来事のように遠く聞こえた。孤独という名の影が、心をじわりと覆っていく。

数日が経った。

犬居城が近づくにつれ、空気は目に見えて変わった。

斥候が駆け戻り、報告を重ねるたびに、列の中からざわめきが漏れる。

「また敵影か……」

「今度はどこだ」

進む道の脇には、焼け落ちた民家の黒い骨組みが並んでいた。炭化した柱は未だに焦げ臭く、源次の鼻を刺した。壊れた荷車の車輪が泥に半ば沈み、打ち捨てられたままだった。

「……ここを通った連中は、もう戻れなかったんだな」

誰も口にはしなかったが、その景色が語ることは明白だった。

次第に、兵たちの口数は減っていった。槍を握る手に、知らず力がこもる。鉄の柄金が掌に食い込み、じっとり汗が滲んでいた。

ある丘を越えた時だった。

遠く、青灰色の空に、一本の煙が昇っているのが見えた。

「狼煙……」

誰かが呟いた。

次の瞬間、源次の脳裏に稲妻のように知識が走った。

――あの森には伏兵が潜んでいるかもしれない。

――あの川を渡る時に、奇襲を受ける可能性が高い。

史実の断片が、ただの情報ではなく、目の前の地形に結び付いて、鮮明な死の光景となって押し寄せてきた。

胸の奥が凍りつく。血の気が引くのを自覚しながらも、顔に出すわけにはいかない。

「……落ち着け。息を整えろ」

心の中で自らに言い聞かせ、周囲を観察する。

あの林は逃げ場になる。あの丘の陰は遮蔽物に使える。退路を、隠れ場所を、頭に叩き込む。

未来を知るということは、死のシナリオを知るということだった。

知識は武器ではない。今の源次にとっては、刃を突きつけられるのと同じ恐怖だった。

「……生き残る。俺が。仲間も」

歯を食いしばり、槍の柄を握る手に力を込める。

重吉の声が、遠い記憶のように甦った。

――死ぬなよ。

その言葉だけを胸の支えに、源次はただ黙って歩き続けた。

行軍の列は、重く沈んだ空気を纏ったまま、犬居城という死地へと近づいていく。

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