第209節『海の道』
第209節『海の道』
「新しい戦場、だと?」
中野直之が、訝しげに問い返す。彼の脳裏には、山、谷、川といった、慣れ親しんだ遠江の地形しか浮かんでこない。これ以上の戦場が、この土地のどこにあるというのか。その問いは、陸の戦いに生涯を捧げてきた武人としての、偽らざる戸惑いであった。
源次は、地図の南――遠州灘の広がる大海原を、扇で力強く指し示した。その動きには、一点の迷いもなかった。
「これより、井伊は海へ出ます! 井伊水軍を創設するのです!」
「水軍!?」
中野と直虎は、同時に驚きの声を上げた。あまりに突飛な、想像の斜め上を行く提案だったからだ。
「軍師殿、正気か。我らは山の民ぞ」と中野が呻く。
その困惑を振り払うかのように、源次の声が力強く響いた。
源次は、二人にその真意を語り始めた。それは、昨夜までの彼が一人で練り上げてきた、壮大な戦略の全貌だった。
「武田方が最も欲し、そして持たぬもの。それは海です。歴史を紐解いても、甲斐の武田氏は常に海への出口を求め、駿河へ侵攻しました。それは、海の向こうにある『富』と『道』を渇望していた証拠。我らがその海を制し、奴らの補給路を背後から脅かせば、いかに武田の大軍とて進軍を躊躇せざるを得ない。陸で戦わずして、敵の足を止めるのです」
その言葉に、直虎と中野は息を呑んだ。ただの水軍創設という話ではない。敵の歴史、その渇望の根源までを的確に見抜き、その弱点を突くという、あまりに深い洞察だった。
「軍師殿……」と中野が声を漏らす。「なぜ、そなたはそこまで武田の内情を……。まるで、長年甲斐で暮らしていたかのようだ」
その驚愕の問いに、源次は「潮目が、そう告げているのです」とだけ答え、話を続けた。
「しかし……」と中野が口を挟む。「我らは山の民。船を操れる者など……」
「おります」と源次は即答した。「浜名湖の権兵衛たち。彼らは湖の主。その腕は、並みの水軍衆を凌ぎます。彼らを味方につければ、日の本でも屈指の船団が編成できます」
(あの漁対決は、このための布石だったんだ。権兵衛殿は、俺が本気で海に出る時を待っているはずだ。彼もまた、ただの漁師で終わる器ではない)
直虎は、その構想の壮大さに目を見張りながらも、最も現実的な問いを投げかけた。
「……源次。その構想、見事じゃ。じゃが、それを成すには莫大な金がかかる。今の井伊に、その力はない」
領主としての、最も切実な悩みだった。
源次は、その問いを待っていたかのように、不敵に微笑んだ。
「だからこそ、水軍なのです。直虎様。この船は、戦うためだけのものではございません。『富』を生むための、宝船となるのです」
彼は、井伊の木綿を熱田の湊に運び、織田領の商人に売って莫大な利益を得るという「交易計画」を、初めて二人に打ち明けた。
「戦で民から搾り取るのではない。商いで富を生み、その富で国を強くするのです。それこそが、我らが生き残る唯一の道!」
その言葉に、直虎と中野は完全に言葉を失った。戦のことしか考えていなかった彼らにとって、それは想像を絶する、新しい時代の戦の形だった。軍事と経済を両輪とする、恐るべき国家戦略。目の前の若き軍師は、もはや戦の勝敗ではなく、国そのものの未来を描いていたのだ。