第208節『未来への危機感』
第208節『未来への危機感』
「ならば、我らが為すべきはただ一つ。次なる手に備えることじゃな」
直虎の決意に満ちた言葉が、静かな部屋に響いた。だが、その問いに源次はすぐには答えず、地図の上を睨んだまま、重い口を開いた。
「……恐れながら、直虎様。次なる手は、もはやこれまでのような『備え』だけでは足りませぬ」
その不吉な響きに、中野直之が眉をひそめた。
「源次殿。儂も、此度の勝利が戦術的なものに過ぎぬことは理解しておる。だが、そなたのその言いようは、まるで我らの『備え』そのものが、もはや意味をなさぬと聞こえるが……。一体、何が見えておるのだ」
源次は、その問いに静かに頷いた。
「……お見通しの通りです。我らが為したのは、押し寄せる大波の、ほんの先端を砕いただけのこと。波そのものは、少しも衰えてはおりませぬ」
彼は地図の上で、武田が取りうるであろう進軍路を赤い線でなぞった。
「次に奴らが来れば、その狙いは上洛。全軍を率いて、この遠江を踏み潰しに来ます。そうなれば、二俣城は落ち、浜松は孤立し、井伊谷も無事では済まなくなります」
その重々しい言葉に、中野は息を呑んだ。
源次は静かに答えた。「潮目が、そう告げております。これまでの戦の流れ、敵将たちの気質、そして圧倒的な兵力の差。その全てを鑑みれば、大きなうねりは、もはや人の力では止められぬかと」
直虎は、その言葉の裏にある、源次がひた隠す「何か(未来知識)」を感じ取りながらも、今はただ彼の分析の鋭さに戦慄するしかなかった。
「そして何より、問題なのは家康殿です」
源次は、さらに踏み込んだ。「此度の戦、家康殿は我らの策を受け入れ、自制されました。ですが、それは我らが勝利したからに過ぎない。彼の心の奥底にある、武人としての誇りと、信玄公への対抗心は、少しも消えてはおりませぬ」
「……つまり?」と直虎が問う。
「つまり、次に信玄公自らが本隊を率いて現れれば、家康殿は必ずや野戦を挑むはずです。先の敗戦の雪辱を果たそうと、今度こそ我らの制止を振り切って。そうなれば、我らも巻き添えになる。その未来が訪れる蓋然性は、残念ながら、極めて高いと言わざるを得ません」
「……陸では勝てぬ、か」
中野が、声を荒げることなく、静かに呟いた。彼の目は地図上の一点――浜名湖の広大な水面を見つめている。
「源次殿。そなたが申す『新たな戦場』とは……もしや」
その問いには、苛立ちではなく、軍師の意図を探ろうとする真摯な響きがあった。
源次は、その成長ぶりに驚きつつ、力強く頷いた。
「はい。陸では勝てぬ。ならば、我らは新たな戦場を創り出すのです。敵が、決して追ってくることのできぬ場所へ」
彼の力強い声が、部屋に響き渡った。
「我らには、海がある。湖がある。その『水の道』こそが、井伊家が生き残るための、唯一の道にございます!」
その言葉に、中野は反発するのではなく、深く腕を組んで思索に沈んだ。
(なるほど……。陸の戦に巻き込まれぬための、全く新しい戦場。水軍か……。確かに、山国の武田には本格的な水軍はない。これならば……)
彼は、源次の示す壮大な絵図の輪郭を、確かに捉え始めていた。
それは、絶望の宣告ではなく、井伊家が生き残るための、唯一の希望への序曲だった。直虎と、そして成長を遂げた中野は、その言葉に、まだ見ぬ未来の光を見た気がした。