表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
207/343

第207節『陸戦の限界』

第207節『陸戦の限界』

 祝宴の喧騒が嘘のように収まった後、城の奥にある一室は、再び静寂と冷徹な空気に包まれた。地図を前に、直虎、源次、そして中野直之の三人が向かい合っている。先ほどまでの酒の席での弛緩した表情は消え去り、その顔はそれぞれの役職――領主、軍師、総大将――のそれに戻っていた。卓上に置かれた蝋燭の炎だけが、壁に三人の真剣な横顔を映し出し、酒の残り香を鋭い緊張感が上書きしていく。


「今回の勝利は、奇跡に近い」

 源次は、祝宴の熱気を一気に冷ますかのように、冷静に口火を切った。その声には、勝利の立役者としての驕りなど微塵もなかった。

「敵将・馬場信春の、我らに対する油断。祝田の谷という、伏兵を置くのにあまりにも都合の良い地形。そして何より、新太殿という規格外の武勇。これらの幸運が一つでも欠けていれば、我らは敗れていました。いや、壊滅していたでしょう」

 彼は地図の上に駒を置きながら、淡々と、しかし容赦なく戦いを分析していく。勝利の裏に隠されていた、いくつもの敗北の可能性を、彼は洗いざらいにして見せた。それは、祝宴の熱に浮かれた心を戒める、冷たい水のような言葉だった。


 直虎は唇を引き結び、中野は腕を組んで黙って聞き入っている。

「しかし、次に武田信玄自らが本隊を率いて来れば、同じ手は二度と通じませぬ。信玄公は、馬場殿のような油断はしない。我らのゲリラ戦術も、一度見れば必ず対策を講じてくるでしょう。そして、何より兵の数が違う。彼我の戦力差は十倍、いやそれ以上になるやもしれぬ。そうなれば、小手先の奇策は通用しない。陸路で武田本隊と正面から戦うことは、すなわち死を意味します」

 その冷徹な言葉に、直虎の肩がわずかに震えた。


 これまでであれば感情的に反発していたはずの中野直之が、静かに頷いた。

「源次殿の言う通りだ。儂も、戦場で武田の本当の恐ろしさを肌で感じた。あれは軍ではない。一つの巨大な生き物だ。規律、練度、そして何より、兵一人ひとりの覚悟が違う。次も同じ手が通じると思うてはならぬ」

 彼はもはや、ただの武断派の将ではなかった。源次と共に戦場を駆け、知略の重要性を痛いほど理解し、勝利の裏にある危険性をも冷静に見据える、真の総大将へと成長していた。

「源次殿、一つよろしいか」

「何でしょう」

「此度の戦、我らは勝った。だが、それはあくまで『戦術』レベルでの勝利。敵の『戦略』そのものを打ち破ったわけではない。信玄公の上洛という大目的は、何一つ揺らいでおらぬ。そうであろう?」

 その言葉に、源次は驚きを隠せなかった。

(中野さん……! あんた、そこまで……! 戦術と戦略の違いまで見抜いているのか!)

 戦術とは個々の戦いの勝ち負け。戦略とは、その先にある大局的な目的。中野は、目の前の勝利に浮かれることなく、武田の最終目的が健在であることを見抜いていた。彼の成長は、源次の想像を遥かに超えていた。

「……お見事です。まさしく、その通りにございます」

 井伊家の武を象徴する男と、その知恵袋となった男。二人の視線が、ここで初めて完全に重なり合った。


 直虎は、二人のやり取りを静かに見つめていた。かつては水と油のように反発し合っていた二人が、今や互いを認め、同じ未来を見据えている。そのことが、彼女の胸に安堵と、そしてこれから立ち向かうべき困難への覚悟を、改めて刻みつけた。

「二人とも、よう分かった。ならば、我らが為すべきはただ一つ。次なる手に備えることじゃな」

 彼女の声には、もはや迷いはなかった。領主として、二人の才を束ね、井伊谷を導く決意がそこにあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ