第206節『祝宴と融和』
第206節『祝宴と融和』
その夜、井伊谷城の広間は、これまでにないほどの熱気と喜びに包まれていた。
祝宴のために、身分の隔てなく、戦から戻った兵士、彼らを支えた領民、そして新しく仲間となった新太隊の者たちまでが集められ、同じ釜の飯を食い、濁り酒を酌み交わしている。囲炉裏で焼かれる川魚の香ばしい匂いが煙と共に立ち上り、あちこちに置かれた樽からは惜しげもなく酒が注がれる。そして何よりも、人々の尽きない笑い声が広間の梁を震わせていた。そこには、戦の後の、かけがえのない平和な時間が流れていた。
主賓席では、直虎を挟んで中野直之と源次が座っていた。
「源次殿! この一杯を受けてくれ!」
中野が、これまでの軋轢が嘘のように上機嫌で、大きな杯を源次に差し出す。その顔は酒で真っ赤だった。
「いやはや、儂もまだまだ目が曇っておったわ! 新参のそなたの策に半信半疑であったが、此度の戦で見事、目が覚めたわ! 知恵もまた、槍働きに勝るとも劣らぬ、見事な『武』よな!」
「とんでもない。中野殿の武勇が敵の退路を断ってくださらなければ、私の策も絵に描いた餅でございました」
「はっはっは! 口も達者よな! よし、飲め! 今日はとことん語り明かそうぞ!」
その豪快な笑い声に、周囲の家臣たちもつられて笑った。家中筆頭の重臣である中野が、新参の軍師である源次を公の場で称賛し、親しく杯を交わす。その光景は、これまでの身分や家格に囚われていた井伊家が、真に実力を重んじる新しい集団へと生まれ変わったことを、誰の目にも明らかに示す象徴的な瞬間であった。源次もまた、その杯を笑顔で受け干した。
宴の輪の別の場所では、新太と弥助たちが、最初は少し離れた場所で遠慮がちに酒を飲んでいた。だが、井伊の若武者たちが「おい、武田の!」ではなく「新太殿の!」と声をかけ、杯を差し出す。
「あの時の側面攻撃、見事であったな! 鬼神とは、まことに貴殿のことよ!」
「いや、あんたたちの粘りがなければ、我らも突入できなかった! 礼を言う!」
先の武田との一連の戦での互いの武勇伝が、言葉の壁を、そして過去の因縁を溶かしていく。「俺は谷の入口で矢を放っていた」「我らは崖の上から岩を落としていたぞ」。それぞれの場所で死線を越えた者たちが、互いの働きを称え合う。やがて弥助も、井伊の兵に肩を叩かれながら、武田での苦労話を肴に酒を酌み交わしていた。新太は、その光景を少し離れて眺め、静かに酒を口に運ぶ。その口元には、かすかな、しかし確かな笑みが浮かんでいた。
(……面白いものだな)
源次は、その温かい光景を少し離れた場所から眺めていた。
(歴史書の中では、彼らはただの駒だった。武田に降った者、徳川に寝返った者、戦で死んだ者。乾いた文字の羅列でしかなかった。だが、今、俺の目の前にいるのは、酒を酌み交わし、笑い、明日を夢見る、血の通った人間だ。俺が変えたのは、戦の結果だけじゃない。この一人ひとりの、名もなき者たちの運命そのものだったのかもしれないな)
その気づきは、軍師としての達成感とはまた違う、歴史の当事者となったことへの、静かで、しかし深い感慨を彼の胸にもたらした。戦で生まれた全ての軋轢が、この夜だけは酒の中に溶けていく。その光景は、源次にとって何よりの報酬であり、次なる戦いへ向かうための、最高の力となっていた。