第205節『おかえり』
第205節『おかえり』
城門では、井伊直虎が家中の主だった者たちを率いて一行を出迎えていた。彼女は領主として毅然と立っていたが、その瞳は喜びと安堵に潤み、袖の中で握りしめられた拳は微かに震えていた。門が開かれ、一行が姿を現した瞬間、彼女の胸に熱いものが込み上げた。源次の姿を、その無事な姿を認めただけで、張り詰めていた心の糸が切れそうになるのを、必死に堪えていた。
作法通り、まず総大将として軍を率いた中野直之が馬を進める。彼は馬上から降りると、直虎の前に恭しく膝をついた。
「直之、大儀であった。見事な采配であったぞ。そなたの武勇なくして、この勝利はなかった」
直虎は、公の役目を果たした筆頭家臣を、領主として労った。その声は凛としていたが、温かさに満ちていた。その言葉に、武骨な中野の目頭が熱くなる。彼は「もったいなきお言葉にございます」と声を震わせ、これまでの人生で最も深く頭を下げた。
その後、直虎は家臣たちの列から離れ、同じく馬を下りて膝をつこうとする源次の前に、自ら進み出た。
周囲の喧騒が、ふっと遠のく。まるで、二人の間だけ時が止まったかのように。人々の視線が、領主と軍師の二人に注がれている。誰もが固唾をのんで、この再会の瞬間を見守っていた。
源次は作法通りその場に膝をつき、顔を伏せたまま、静かに、しかし万感の思いを込めて告げた。
「ただいま、戻りました」
その声を聞いた瞬間、直虎は領主の立場も、人目も忘れた。彼女は身をかがめると、源次の震える手に、そっと自らの手を重ねた。戦の汚れと疲労で荒れたその手に、彼女の温もりが伝わる。
「……おかえり、源次。よう、戻った。……本当に、よう……」
言葉は途切れ、一筋の涙が彼女の頬を伝った。それは領主の言葉ではなかった。ただ、心の底から大切な者の帰りを待ちわびていた、一人の女性の言葉だった。彼を死地に送り出したことへの悔恨、無事を祈り続けた夜の長さ、そして今、目の前に彼がいることへの純粋な喜び。その全ての感情が、その一言と一筋の涙に込められていた。
その親密で感動的な光景に、見守っていた家臣たちは息を呑み、領民たちからこの日一番の温かい歓声が沸き起こった。
(うわあああああ! 推しが! 推しが俺の手を! しかも涙目で「おかえり」って! ご褒美がすぎる! 最高のファンサービスだ! もう死んでもいい! いやダメだ、この笑顔を守るために、俺はこれからもっと、もっと頑張るんだ! この手はもう洗えねえ!)
源次の心は、誰にも聞こえない歓喜の絶叫で満ちていた。彼はただ、重ねられた手の温もりを、永遠に忘れないと誓うことしかできなかった。その温もりこそが、彼がこの戦国乱世で戦い続ける、唯一にして最大の理由となっていた。