第202節『英雄たちの帰還』
第202節『英雄たちの帰還』
井伊谷の山々に囲まれた物見櫓。その上で、一人の兵士が遠眼鏡を覗き、息を殺していた。秋風が櫓を揺らし、旗がはためく音が耳につく。もう何日も、彼はこの場所から街道の先を見つめ続けていた。領内には「祝田の谷にて大勝利」という報は届いている。だが、実際に彼らの姿を見るまでは、本当の安心は訪れない。
やがて、遠州の街道の先に、見慣れた井桁紋の旗が、帰還を告げるように秋風にはためくのを捉えた。待ちわびた光景に、彼の胸が熱くなる。一度、二度と瞬きをし、それが陽炎の幻ではないことを確かめる。間違いない。あの隊列、あの旗印。彼はありったけの声を張り上げた。
「お戻りだ! 中野様と軍師様がお戻りになられたぞ!」
櫓から放たれたその叫びは、静かな谷にこだまし、麓の城へと響き渡った。その声は、麓に待機していた伝令の馬に火をつけた。
報せは、風よりも速かった。
城門から放たれた早馬が「ご帰還! ご帰還なされたぞ!」と叫びながら城下を駆け抜ける。
その一声で、井伊谷の空気が変わった。
田で最後の稲穂を刈り取っていた農民が鎌を置き、「本当か!」と顔を上げた。市で布を広げていた商人が慌てて商品をしまい込み、「祝いの酒を用意せねば!」と店を畳む。家の奥で静かに糸を紡いでいた老婆が、震える手で杖を握りしめ、「ああ、神仏よ……息子は、息子は帰ってきておるか」と涙を浮かべながら家の外へと向かう。
「勝ったそうだ!」「武田を追い返してくださった!」
「ほとんど死人が出なんだと! まるで、誰一人死なずに帰ってきたようなもんじゃ!」
噂は歓声に変わり、歓声は熱狂の渦となった。かつて桶狭間の戦いで多くの男衆を失ったこの谷の者たちにとって、あの武田の大軍を相手にして被害が極めて少なかったという事実は、奇跡以外の何物でもなかったのだ。それは、ただ勝利を喜ぶ声ではなかった。自分たちの父が、夫が、息子が、兄弟が、無事に生きて帰ってくるという安堵の叫びだった。
やがて、城下に据えられた櫓から、祝祭を告げる太鼓が力強く打ち鳴らされた。ドンドン、ドンドンドン――その心躍る響きに誘われ、泥だらけの子供たちが家の軒先から飛び出し、道を駆ける。
井伊谷へと続く最後の峠道に差し掛かった頃には、その熱狂は歓声の波となって、源次たちの耳にも届き始めていた。
(……すごい熱気だ。まるで祭りのようだ。俺たちが守ったのは、この笑顔か。この当たり前の日常か)
胸の奥から、これまで感じたことのない種類の感動が込み上げてくる。
(歴史書の中の乾いた文字を、ただ追うだけだった俺が……今、その歴史を創る側に立っている。この人々の笑顔も、涙も、俺の一つの判断で生まれる。そのとてつもない重みに……身が震えるようだ)
彼は言い知れぬほどの充足感と、同時に身を引き裂かれそうなほどの責任を感じていた。
(この光景を、絶対に失わせはしない。次に信玄が来た時も、必ず。そのために、俺はここにいるんだ)
峠の頂に立ち、眼下に広がる故郷の光景を見下ろす。城下へと続く道は、自分たちの帰還を一目見ようと詰めかけた領民たちで、すでに完全に埋め尽くされていた。人々の熱気で、秋の冷たい空気さえも温かく感じられるほどだった。
その熱狂の渦の中心で、領民たちは皆、今か今かと、この峠の一点を見つめている。
やがて、彼らを見下ろす源次たちの掲げる井桁紋の旗が、領民たちの目に留まった。
一瞬の静寂の後、谷全体を揺るがすような、爆発的な歓声が湧き上がった。
「おおおおおっ!」
「お帰りなさいませ!」
源次たち一行は、その万雷の拍手と歓声に迎えられ、誇らしげに故郷への最後の坂道を下り始めた。