第201節『帰路へ』
第201節『帰路へ』
浜松城の大手門は、秋の澄んだ空気を映して、重々しくも静かに開かれていた。門の内側には、全ての戦後処理を終え、まさに故郷・井伊谷へと帰還せんとする井伊の部隊が、整然と列をなしている。先の戦で流れた血の匂いは洗い流され、今はただ、無事に生きて帰れることへの安堵と、戦場で張り詰めていた心身が解き放たれたことによる深い疲労が入り混じった、独特の空気が漂っていた。兵士たちは口数少なく、ただ故郷の方角をじっと見つめている。
その列の前に、徳川家康が直々に見送りに現れた。供も最小限に、彼は馬を下りると、喧騒をものともせず、真っ直ぐに源次の前まで歩み寄る。そして、居並ぶ全ての家臣が見守る前で、ためらうことなく源次の手を取った。その手は武骨で、幾多の戦をくぐり抜けてきた者の硬さと、不思議な温かみがあった。
「達者でな、友よ。井伊谷の民が、そなたの帰りを待ちわびておろう」
その声は温かく、決して総大将が陪臣にかける言葉ではなかった。
そして、家康は去り際に、周囲に聞こえぬよう、そっと源次の耳元で囁いた。
「――そなたから頼まれていた『約束』の件、違えぬぞ」
彼は源次の手の内に、小さな木札をそっと握らせた。源次はその硬い感触と、指先に触れる焼印の凹凸を確かめる。公式な書状ではない。だが、これこそが自分が求めていた、家康本人の意思を示す何よりも重い「証」だった。
(……もらった!)
源次は、込み上げる高揚を必死に抑え、深く頷いた。家康は満足げに笑うと、今度こそ背を向け、城内へと戻っていった。
本多忠勝ら徳川の猛将たちも、もはや侮りの視線は向けていなかった。彼らは馬上の源次たちを見上げ、対等な武人としての、あるいは恐るべき好敵手を見るような複雑な眼差しで見送っていた。源次、中野直之、そして新太。井伊の未来を担う三将は、それぞれ馬上から深々と礼を返し、その視線を背に受けながら、ゆっくりと井伊谷への帰路についた。
街道を進む道中、秋風が頬を撫で、鎧の隙間を吹き抜けていく。隣では、新太が救出した仲間たち――弥助らと馬を並べ、彼らの傷の具合を気遣うように声をかけている。
「おい、弥助。その肩の傷はもう痛まねえのか」「はっ。新太様のおかげで、もはやこの通り。それより、井伊谷という土地は、どのような場所なのでしょうか」
新太は少しだけ遠い目をすると、ぶっきらぼうに、しかし確かな実感を込めて答えた。「……いい所だ。少なくとも、俺たちのような者でも飯を食わせてくれる」
そのやり取りには、主従を超えた家族のような温かさがあった。
その後方では、中野直之もまた、勝利の余韻に浸っているようだった。彼は無言で前を見据えていたが、その口元はかすかに緩み、時折、誇らしげに井伊の旗を見上げている。
「見事な秋晴れよな、源次殿」
ぽつりと漏らされた言葉に、源次は頷いた。「ええ。井伊谷の稲穂も、今頃は黄金色に輝いているでしょう」「うむ。民の笑顔が目に浮かぶようだ」
仲間たちの顔には、故郷へ帰れる喜びが満ちていた。
だが、源次の胸中だけは、秋空のようにどこまでも晴れることはなかった。
(家康の「友」という言葉……重すぎる。あれは、俺という存在を徳川に繋ぎ止めておくための、甘く、そして危険な毒だ。心を許せば、いずれ井伊家ごと呑み込まれる)
彼は、この勝利が「歴史の定数」を変えるものではないことを、この中でただ一人知っていた。
(武田は退いたのではない。ただ、傷ついた牙を癒すために巣穴へ戻っただけだ。山国の武田にとって、冬の進軍は何より補給路の寸断を恐れる。甲斐へ通じる峠道が雪に閉ざされる前に、一度兵を引くのは当然の判断。皆は勝利に浮かれているが、これはただの季節的な休戦に過ぎない)
(これらは全て、来たるべき悲劇――三方ヶ原の戦いへの序曲でしかない。この束の間の平和に浮かれている暇はないんだ。直虎様に本当の笑顔を取り戻してもらう、その日までは)
源次の視線は、仲間たちの安堵の表情とは裏腹に、すでに次なる危機――信玄本隊の襲来――という、避けられぬ未来の戦場を見据えていた。彼の凱旋は、次なる戦いへの静かな始まりでもあった。