第200節『一番槍の誓い』
第200節『一番槍の誓い』
軍議が散じた後、源次は一人、月明かりが差し込む縁側で夜風にあたっていた。勝利の熱狂も、軍議の緊張も今は遠い。ただ、友を救えたという安堵感と、これから背負う責任の重さが、彼の心を静かに満たしていた。
(……疲れた)
思わず、現代人としての本音が漏れる。鎧を脱いだ肩が、ずしりと重い。
(軍議って、斬り合いよりよっぽど疲れるな。特に徳川の連中は一癖も二癖もある。あんなのを毎日相手にしている家康は、ある意味すごいわ……)
彼は、同盟相手の総大将である男の、得体の知れない器の大きさを、改めて感じていた。
そこへ、足音もなく新太が現れた。彼は槍を脇に置き、源次の隣にどかりと腰を下ろすと、無言で酒の入った瓢箪を差し出した。
「……助かった」
ぽつりと、新太が呟いた。そして、続ける。
「いや、俺だけじゃない。あいつらもだ。あんたがいなければ、俺は一人で突込んで犬死にし、あいつらも皆殺しにされていただろう」
その声は、ぶっきらぼうだが、偽りのない感謝の響きを持っていた。
「礼を言う」
その短い言葉に、これまでの全ての出来事が凝縮されていた。
源次は何も言わず、差し出された瓢箪を受け取ると、そのまま口をつけて煽った。強い酒が、疲れた体に沁み渡る。
「……うまい酒だな」
「ああ。徳川の蔵からくすねてきた」
二人は、どちらからともなく笑った。
この一件で、源次と新太の絆は、もはや誰にも壊せないものへと変わっていた。それは、単なる主従でもなければ、ただの友誼でもない。互いの命を預け、互いの弱さを知り、その上で共に立つと決めた者同士の、絶対的な絆だった。
やがて、新太は居住まいを正し、源次の前に無言で膝をついた。そして、武士が忠誠を誓う時の、最も真摯な礼をもって、深々と頭を下げた。
言葉はない。だが、その背中が、その静寂が、何よりも雄弁に絶対的な忠誠を物語っていた。
源次は驚いて彼を起こそうとしたが、その肩に触れた瞬間、悟った。これは儀式なのだと。新太が、過去の自分――武田への未練や、行き場のない怒りを抱えていた自分――と決別し、新たな道に進むための。
「……顔を上げろ、新太」
源次の声は、いつになく静かで、重かった。
「俺は、あんたの主君になる器じゃない。俺たちは、これからも友だ。違うか?」
新太は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、吹っ切れたような、清々しい光が宿っていた。
「……ああ。友だ。だが、これだけは誓わせてくれ」
彼は、傍らに置いた自らの槍を指し示した。
「俺のこの槍は、これより生涯、お前のために振るおう。お前が進む道を切り拓く、一番槍として」
その言葉は、単なる忠誠の誓いではなかった。新太という稀代の武人が、自らの武の全てを、源次という知恵の全てを司る男に捧げるという、魂の契約だった。
源次は、その言葉の重さを静かに受け止め、力強く頷いた。
「ああ。頼りにしている」
彼はそう答えながら、内心で友に語りかけていた。
(最強の槍……か。悪いな、新太。あんたの隣に立つ俺は、最強の知恵者なんかじゃない。未来を知っているだけの、ただのカンニング野郎だ。あんたほどの『本物』の隣に立つには、俺はあまりに紛い物だ。……でも、それでも、あんたの力がいるんだ。俺の、たった一人の推しが笑って暮らせる未来を作るために。どうか、この偽物軍師に力を貸してくれ)
源次は、目の前の友を見つめ返した。その瞳には、罪悪感と、それでも進むしかないという、悲壮な決意が宿っていた。
ただの若者二人が、月明かりの下で酒を酌み交わしている。
最強の「槍」と、未来を知る「知」が、友として、ここに完全に結ばれた。
月明かりが、二人の影を長く、そして一つに結びつけていた。