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第20節『初陣命令』

第20節『初陣命令』

 朝霧の残る井伊谷城の庭に、徳川からの使者が駆け込んだのは、まだ鶏の声が聞こえる刻限であった。

 息を切らしたその姿に、城中の者たちはただならぬ気配を察する。やがて城主館の大広間に家臣団が集められ、緊急の評定が始まった。

 畳に並んだ顔ぶれは重々しい空気に包まれている。源次は命により末席に控え、息を殺して主君の言葉を待った。

 使者の報告は簡潔であった。

「武田方に通じる天野氏が守る犬居城を攻めるため、徳川殿は井伊家に援軍を求められております」

 静寂。障子越しに差し込む光が、緊張をさらに鋭く映し出す。

 最初に声を上げたのは中野直之であった。

「これは好機にございます! 徳川殿に恩を売ることができれば、井伊家の地歩も固まる。兵を挙げ、ただちに応じるべきと存じます!」

 その力強い声に、武断派の若侍たちが頷いた。だが、すぐさま反対の声が飛ぶ。

「軽々しく申すな、直之殿。我らの兵力は限られておる。徳川の大軍に比べれば、我らが出す兵など微々たるもの。それでも、失えば井伊谷は立ちゆかぬ」

 老臣の憂慮はもっともであった。

 小国の井伊家にとって、一度の大敗は即ち滅亡を意味する。だからこそ評定は激しく揺れた。

 源次は黙って成り行きを見守る。心の内では別の思考が渦巻いていた。

(犬居城……史実では、確か徳川方がかなり苦戦を強いられたはず。勝ちはしたが、多くの血が流れた……)

 その知識が、冷たく胸を締めつける。

 やがて、議論を収めるように井伊直虎が口を開いた。

 彼女の声は細くも、揺るぎなかった。

「……徳川との約定を違えるわけには参りませぬ。兵を出します」

 広間に重苦しい沈黙が落ちた。

 直虎はさらに言葉を継ぐ。

「兵の指揮は直之、そなたに任せる。……そして、源次も隊に加えよ。この者の知恵が戦場でどう生きるか、この目で確かめたい」

 不意に呼ばれた名に、源次の背筋が強張る。

 直之の顔に露骨な不満が浮かんだが、主命に逆らうことはできない。

「……御意」

 その声は、噛み殺した怒りを孕んでいた。

 評定は終わり、決断は下された。

 ほどなく法螺貝が城下に鳴り響いた。

 触れ太鼓が回り、出陣の報は領内に広がってゆく。

 足軽長屋は一気に沸き立った。

「おい、犬居城だとよ! 徳川様の大軍に加わるんだ!」

「手柄を立てれば、褒美も夢じゃねぇ!」

 勇ましく語り合う若者たちの声が飛び交う。

 片や、黙々と爪を切り始める者もいる。戦場で長くは生きられぬと悟った者ほど、出立前に爪を整える。死しても醜く見えぬように――それは暗黙の習わしであった。

 中には、墨を磨り、急ぎ家族への文をしたためる者もいた。紙面に滲む筆先の震えが、そのまま恐怖の証である。

 兵たちの人間模様が、ひとつの広間で渦巻いていた。

 源次もまた、支給された胴丸を身につける。

 鉄の冷たさが肩と胸を押さえつけ、息をするたびに重みを実感させる。

「……これが、戦場に立つということか」

 心の中で呟く。

 知識として知っていた「具足の重さ」が、現実のものとなった瞬間だった。

 槍を受け取る手に、汗が滲む。

 史実の知識が脳裏を巡る。犬居城の戦、徳川方は数で勝るも、地の利を得た武田方に手を焼いた。無謀に突撃すれば、真っ先に斃れるのは足軽だ。

 その時、声がかかった。

「源次殿! 俺たちならやれますぜ!」

「そうだ、あんたの訓練どおりに動けば大丈夫だ!」

 漁村上がりの足軽たち――源次が教練を施してきた仲間たちであった。

 その顔は緊張に強張りながらも、どこか誇らしげである。

 彼らは源次を信じ、戦場で生き抜けると本気で思っている。

(……この信頼を裏切るわけにはいかない)

 心臓の鼓動がひときわ強く鳴った。

 彼らの声は、重荷であると同時に、源次にとって力でもあった。

 夜。

 出陣前の城下は不気味な静けさに包まれていた。

 源次はひとり、与えられた槍を磨いていた。鉄の匂いと油の手触りが、夜の闇をより濃くする。

 背後から、低い声がした。

「……初陣か」

 振り向けば、重吉が立っていた。

 老いたその眼差しには、どこか温かさと厳しさが同居している。

「……死ぬなよ」

 短い言葉が、ずしりと胸に落ちた。

 源次は槍を磨く手を止め、耳を傾ける。

「戦場では、一番槍を競うな。一番槍は、一番死にやすい。

 敵の顔を追うな。足元を見ろ。横を見ろ。後ろを見ろ。そうすれば……死ぬ確率は、少しだけ下がる」

 それは、幾度も死地を潜り抜けた者にしか語れぬ知恵だった。

 源次は深く息を吸い、頭を下げる。

「承知いたしました」

 生き残るためだけではない。

 共に戦う仲間を、生きて帰らせるために。

 その覚悟が、静かに胸に灯る。

 夜風が障子を揺らし、遠くで犬の声が響いた。

 明日は、血と鉄の匂いに満ちた戦場が待つ。

 それでも――源次の瞳は揺らがず、ただ静かな決意に満ちていた。

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