第2節『漁村の若者“源次”』
第2節『漁村の若者“源次”』
「これは……誰の手だ?」
その言葉を吐き出してから、どれほどの時間が経ったのか分からない。
源次――いや、「私」は、見知らぬ漁師の手を凝視したまま、呆然と板の間に座り込んでいた。
白く柔らかかったはずの研究者の指先は、節くれ立ち、日に焼け、何度も網を扱ったであろう痕跡に覆われている。夢だ。これは悪夢に違いない。必死にそう自分に言い聞かせた。
だが、どれほど瞬きを繰り返しても、目の前の手は消えなかった。
冷や汗が頬を伝い、呼吸は浅くなる。
「落ち着け……夢だ、ただの夢だ」
かすれた声が、板の間に虚しく響く。
視界が揺れる。心臓が胸を打ち破りそうなほど暴れている。
居ても立ってもいられず、私はふらふらと立ち上がり、小屋の戸口に手をかけた。
軋む音を立てて戸を開けると、潮の匂いがさらに濃くなった。
――そこに広がっていたのは、朝焼けに染まる海だった。
赤と金が溶け合い、水平線を照らし出す。
波は規則正しく打ち寄せ、白い泡を散らす。
砂浜には木製の小舟が並び、網や桶が置かれている。
背後には、藁屋根の粗末な小屋が寄り添うように立ち並び、煙突からは薄い煙が立ち昇っていた。
漁村。
テレビの時代劇でしか見たことのない、古めかしい漁村の風景が、目の前に現実として存在していた。
「……あり得ない」
喉の奥から勝手に言葉が漏れる。
目を閉じても、開けても、その風景は消えない。
夢ではない。だとすれば――私はどこにいる? ここは、いつの時代なのか?
足元に置かれた木桶に目が止まった。
海水を汲んだのだろう。澄んだ水面が、朝の光を反射して揺れている。
私は、引き寄せられるようにその桶へ近づいた。
恐る恐る身をかがめ、水面を覗き込む。
そこに映っていたのは――私ではなかった。
日に焼けた精悍な若者の顔。
頬には細かい傷が走り、目は鋭く、口元は引き締まっている。
年齢は二十歳そこそこに見える。
だが、私は三十半ばを過ぎた歴史研究家だ。この顔は、全く知らない誰かのもの。
「……終わった」
声にならない絶望が胸を突いた。
桶に映るその顔を拒絶するように、私は後ずさり、砂に崩れ落ちた。
◆
「――源次! いつまで寝ぼけてるんだ!」
不意に背後から怒鳴り声が響いた。
振り向くと、背を丸めた老漁師が立っていた。
顔は皺だらけで、日に焼けた皮膚は革のように固い。
だがその目は、叱責と同時に心配を含んでいた。
「げ、源次……?」
私の耳は、その言葉を確かに捉えた。
源次。
彼は、私をそう呼んだ。
老漁師は近づくと、ため息混じりに言った。
「まったく……若いくせに、朝から何を突っ立っておる。熱でもあるのか?」
「え……あ……」
言葉が出ない。
何を言えばいいのか分からない。
「まあいい。海に出れば目も覚める。さっさと来い」
老漁師は有無を言わせず、私の腕を引っ張った。
その力は驚くほど強く、抵抗する気力さえ奪われる。
「ま、待ってくれ、俺は……」
言いかけた言葉は、波音にかき消された。
気づけば私は、小舟へと押し込まれていた。
◆
櫓を漕ぐ音。
潮の香り。
太陽の光が波に反射し、目を眩ませる。
私は舟の上で呆然と座っていた。
だが次の瞬間、老漁師が差し出した破れかけの網に触れた途端――私の手が勝手に動いた。
糸を結び、穴を塞ぎ、網を修繕する。
まるで長年の習慣であるかのように、滑らかに。
頭ではやり方を知らない。だが身体は知っている。
「な、なんだこれは……」
震える心とは裏腹に、指先は正確に網を繕い続ける。
さらに老漁師が「漕げ」と命じると、腕と背中が自然に櫓を握り、一定のリズムで海を切り裂いた。
――これは、俺の身体じゃない。
――この身体は、『源次』という漁師のものだ。
恐怖が喉を締め付けた。
私の精神と、この肉体はまるで別人だ。
私は「私」でありながら、「源次」として動かされている。
◆
「おい、どうした? 顔色が悪いぞ」
老漁師の声が頭上から降ってきた。
私は慌てて視線を逸らし、曖昧に答える。
「あ、ああ……少し頭が、ぼうっとして……」
「ふん。昨日、どこかで頭でも打ったんじゃろう。何も覚えておらん顔をしおって」
老漁師は呆れたように鼻を鳴らし、だが続けて言った。
「まあ、腹が減れば思い出すさ」
その声音は不器用ながらも温かかった。
私は何も返せず、ただ海の上で揺られ続けた。
◆
夕刻。
漁を終え、舟を浜に戻す頃には、私は全身が鉛のように重くなっていた。
精神は混乱の渦に巻き込まれているのに、身体は黙々と漁をこなしていた。
その乖離の疲労が、今になって一気に押し寄せていた。
小屋に戻ると、老漁師は無言で土間に鍋を置いた。
中には魚の塩焼きと、麦飯。
湯気が立ちのぼり、磯の香りと焦げの匂いが胃を刺激する。
「食え」
短い一言。
私は迷った。
これは現実なのか、幻なのか。
だが、空腹は否応なく答えを迫った。
一口。
塩気と脂が舌に広がり、麦飯の素朴な甘みが喉を満たす。
止まらなかった。
気づけば、夢中で食らいついていた。
胃に温かさが広がる。
身体が力を取り戻す。
――生きている。
この世界で、確かに生きている。
◆
夜。
老漁師が寝入った後、小屋の片隅で私は自分の手を見つめた。
もうそれは「見知らぬ手」ではなかった。
今日一日、この手で網を繕い、櫓を漕ぎ、魚を引き上げた。
この手は確かに「私」のものになり始めていた。
息を吐く。
混乱も恐怖も、消えはしない。
だが、否定もできなくなっていた。
「……今は、この『源次』として生きるしかないのかもしれない」
その言葉は、諦めではなく、かすかな決意のように口をついた。
外では、波が規則正しく寄せては返していた。
明日もまた、海は待っているのだろう。




