第199節『家康の裁定』
第199節『家康の裁定』
本多忠勝の言葉が、評定の間に重く響き渡っていた。
「義」と「覚悟」――三河武士の魂の根幹を問うその一喝は、大久保忠世ら反対派の口を固く閉ざさせた。広間の空気は完全に変わり、全ての視線はただ一人、上座に座す主君・徳川家康へと注がれていた。
家康は、腕を組んだまま、じっと目を閉じていた。だが、その瞼の裏では、激しい葛藤が繰り広げられていた。
(忠勝の言う通りだ。恩に生きると誓った武士の覚悟を、無碍にはできん。儂とて、三河武士の棟梁。情や義理を軽んじることは本意ではない)
武人としての彼の血が、そう叫んでいる。
(だが……)
彼の思考に、冷たい影が差す。
(忠世の懸念もまた、もっともだ。井伊家が力を持ちすぎるのは好ましくない。特に、源次という男……この男の底は、まだ見えぬ。奴の手に、これ以上強力な駒を渡してよいものか……)
武人としての情と、為政者としての猜疑心。その二つが、彼の心で激しくせめぎ合っていた。
やがて、家康はゆっくりと目を開いた。その瞳には、答えを出しかねる苦悩の色が浮かんでいた。彼は、自らの判断だけではこの場を収めきれないと悟り、最も信頼する老獪な参謀に、そっと視線を送った。
――酒井忠次。
その視線を受け、忠次は全てを察したように、かすかに頷いた。そして、主君の耳元にそっと進み寄り、一言、二言、策を囁いた。
その言葉を聞いた家康の顔から、迷いがすっと消えた。彼の口元に、いつもの獰猛な笑みが戻る。
「……答えは出たわ」
彼は源次へと視線を向けた。
「源次殿。そなたが救った命、そなたが責任を持って預かるが良い。その者たちを、井伊の新たな力として鍛え上げることを、この徳川家康が正式に許可する。ただし、その忠義が真であるか、我らの目の前で示してみせよ。それこそが、忠世をはじめとする皆を納得させる唯一の道であろう」
それは、源次の功績を認め、彼にさらなる権限と責任を与えるという、絶妙な裁定だった。
この裁定は、弥助たちを「井伊家の兵」として正式に認めるという形をとっている。しかし同時に、「徳川家康がそれを許可した」という体裁を取ることで、彼らの存在を徳川家の管理下に置き、井伊家が勝手に軍事力を増強したわけではない、という建前を作り上げたのだ。
大久保忠世らは、主君のこの裁定に反論できなかった。自分たちの懸念に対して、家康が「監視し、試す」という答えを示したからだ。
源次は、その裁定の裏にある酒井忠次の老獪な知恵と、それを即座に採用した家康の決断力に、改めて戦慄を覚えた。
(……俺は、家康一人と戦っているんじゃない。徳川家という、巨大な組織と向き合っているんだ。武の忠勝、知の忠次……そして、その両方を使いこなす家康。一筋縄ではいかない)
源次は深く一礼し、その裁定を謹んで受け入れた。
「ははっ……! 御意にございます。この源次、必ずや彼らを、徳川様のお役に立つ最強の刃として鍛え上げてご覧にいれます」
その力強い言葉が、この長い軍議の終わりを告げた。