第198節『武士の義理』
第198節『武士の義理』
「斬り捨てよ!」
「いや、それでは我らの武名が廃る!」
評定の間は、弥助たち元武田兵の処遇を巡り、怒号と罵声が飛び交う修羅場と化していた。大久保忠世ら現実主義の家老たちは、彼らを危険分子として即時処分することを主張し、若い武士たちは、降伏を誓った者を斬るのは武士の道に反すると感情的に反発する。議論は完全に平行線をたどり、家康もまた、腕を組んだまま難しい顔で沈黙を守っていた。
源次は、その光景を冷静に見つめていた。
(……駄目だ。感情論とリスク論がぶつかってるだけだ。これじゃ埒が明かない。俺が何か言っても火に油を注ぐだけだし……。誰か……この場の空気を断ち切れるだけの、重い言葉を持つ者はいないのか)
彼の視線が、広間の一角で微動だにせず座す、一人の巨漢へと向けられた。本多忠勝。彼は、この議論に一切口を挟まず、ただじっと弥助たちの顔を値踏みするように見つめていた。
やがて、その忠勝が、ゆっくりと立ち上がった。
ぎしり、と畳が軋む。その音だけで、広間の喧騒が嘘のように静まり返った。徳川最強の武将が放つ無言の圧力に、誰もが息を呑んだのだ。
彼は源次を擁護するのではない。ただ、自らの信じる武士の道に従って、口を開いた。
「忠世殿の懸念、分からぬでもない。確かに、彼らは昨日までの敵だ。信じるに足るかは、まだ分からぬ」
その言葉に、忠世は「見たことか」と言わんばかりに頷いた。
「しかし」と忠勝は続けた。その声は、地を這うように低く、重い。
「考えてもみよ」
彼は、広間の中央に座る弥助を、その巨体で見下ろした。
「貴様ら、主君であった武田に見捨てられ、敵である我らに命を救われた。その上で、再び武田に戻りたいと思うか?」
弥助は、力強く首を横に振った。
「もはや武田に義理はございませぬ! 我らの命は、新太様と、そして我らを救う決断をされた源次殿に預けたもの! この命、井伊のため、徳川様のために使う所存!」
その言葉に、偽りはなかった。一度死んだ男の、魂からの叫びだった。
忠勝は満足げに頷くと、今度は広間の家臣団に向き直った。
「聞いたか。彼らはもはや武田の兵ではない。一度死んだ身。その上で、恩義に生きると誓った武士だ。三河武士である我らが、その覚悟を疑うてどうする!」
彼の声が、広間を震わせる。
「源次殿の行いは、確かに常軌を逸しておる。敵兵を救うために味方を危険に晒すなど、普通の将であれば決して下さぬ判断だ。されど、その結果として仲間を見捨てぬという『義』が示された。そして、その義に応え、恩に生きると誓った彼奴らの『覚悟』が、今ここにある」
忠勝は、一度言葉を切り、広間にいる全員に問いかけるように続けた。
「我ら三河武士が最も重んじるべきは、小手先の計算か、それとも人が示す義と覚悟か! 儂は後者を信じる! 彼らを信じ、使いこなしてこそ、真の将器というものであろう!」
源次は、その言葉を聞きながら、内心で拳を握りしめていた。これまで、ただ武勇一辺倒で、自分とは決して相容れない存在だと思っていた徳川最強の猛将。その彼が、誰よりも深く「武士の義」の本質を理解し、自分の行動の核心を代弁してくれた。その驚きと感動が、源次の心に熱いものを込み上げさせた。
(忠勝さん、ナイスアシスト……! あんた最高だよ! 俺が言いたかったこと、全部あんたが言ってくれた! しかも、俺が言うより百万倍説得力あるわ!)
それは、源次個人への肩入れではなかった。
武士として貫くべき「義理」と「覚悟」。その一点において、弥助たちと、そして彼らを救った源次の行動を、本多忠勝という男が認めた瞬間だった。彼の言葉は、単なる感情論ではない。武士の生き様そのものを問う、あまりにも重い一撃だった。そして何より、家中随一の武功を誇り、最も実直とされる彼が発した言葉だからこそ、誰もが耳を傾けざるを得なかったのだ。
大久保忠世は、ぐっと言葉に詰まった。彼もまた三河武士。忠勝が語る「義」と「覚悟」を、正面から否定することなどできなかった。
広間の空気は、完全に変わった。源次を非難する声は消え去り、誰もが家康の最後の裁定を、固唾をのんで待っていた。