第196節『夜明けの問い』
第196節『夜明けの問い』
偽装部隊の指揮官が地に伏した瞬間、戦いの趨勢は完全に決した。
頭領を失った兵たちは、統率を失った羊の群れのように逃げ惑い、もはや組織的な抵抗はどこにもなかった。谷間に響き渡っていた怒号と金属音は次第に遠ざかり、代わりに負傷者のうめき声と、夜明け前の冷たい風の音だけが残った。
丘の上では、榊原康政が静かに息を吐いた。
「……終わったか」
彼の役目は終わった。井伊の軍師が暴走することなく、驚くべき手腕で勝利を掴んだこと、そしてその全てを、彼は証人として見届けた。彼は傍らの伝令に短く命じた。「殿に言上せよ。『井伊の潮読み、恐るべきものなり』と」。そして、自らの部隊を率い、音もなく浜松城への帰路についた。これ以上、彼がこの「井伊の戦」に踏み込む必要はなかった。
谷底では、源次が冷静に指示を飛ばしていた。
「深追いは無用! 全軍、撤退する! 負傷者を集め、隊列を整えよ!」
兵たちは、源次の命令に従い、迅速に動き始めた。生き残った仲間と肩を叩き合う者、倒れた敵兵に静かに手を合わせる者。誰もが極度の緊張から解放され、安堵の息をついていた。
新太は、源次の側に戻ると、槍に付着した血を無造作に拭った。
「……終わったな」
「ああ。お前の働きがなければ、危なかった」
源次の労いの言葉に、新太は鼻を鳴らした。「礼はいらん。それより、これからどうする。こいつらを連れて、どうやって浜松まで戻る気だ」
彼の視線の先には、集められた元武田兵たちがいた。彼らは武器を置き、傷ついた仲間を介抱しながら、不安げな表情で源次たちの様子をうかがっている。
その中から、部隊長であった弥助が、覚束ない足取りで源次の前に進み出た。彼の鎧は砕け、顔は煤と血で汚れていたが、その瞳だけは真っ直ぐに源次を見据えていた。
「源次殿」
彼はその場で膝をつき、深く頭を下げた。
「此度の御恩、言葉もございませぬ。この弥助、そして我が部下たちの命、貴殿と新太様に救われました。なれど……」
彼は顔を上げ、切実な声で問いかけた。
「一つ、どうしても解せぬ儀が。我らを攻撃してきたのは、紛れもなく徳川の旗を掲げた部隊。しかし、貴殿が討ち取った敵兵の懐を探ったところ……これが見つかりました」
弥助が震える手で差し出したのは、血に濡れた一枚の木札だった。それは兵の身分を示す認識票のようなもので、そこに刻まれていたのは、葵の御紋ではない。紛れもない、武田菱であった。
源次は、その木札を静かに受け取った。
「弥助殿。あなた方を攻撃していたのは、徳川軍ではない。徳川の旗を掲げた、武田の兵だ」
その言葉は、残酷な真実の宣告だった。
弥助は息を呑んだ。自分たちが、味方に裏切られ、粛清されようとしていた。そして、それを救ったのは、敵であるはずの者たちだった。その事実に、彼の全身から力が抜けていく。
「なぜ……我らが……」
「お前たちの居場所は、俺が必ず作る。この戦が終わったら、の話だがな」
源次の声は、穏やかだったが、不思議な力強さがあった。
「今は何も考えず、傷を癒せ。そして、生き延びることだけを考えろ」
その言葉は、何の保証もない、ただの口約束だった。だが、全てを失った弥助の心に、その言葉は染み渡った。
「……ありがたき、お言葉」
弥助は、それだけを言うのがやっとだった。
東の空が、ゆっくりと白み始めていた。
夜明けの光が、血に濡れた谷を照らし出す。それは、地獄のような戦いの終わりと、彼らの新しい、そして不確かな未来の始まりを告げる光だった。
源次は、部隊に撤退を命じた。
向かうは浜松城。だが、そこは安息の地ではない。
救い出したこの四十の命をどう処遇するのか。徳川の将たちをどう説き伏せるのか。そして何より、忠誠の対象が異なるこの異質な部隊の存在を、総大将である家康がどう判断するのか。刃を交える戦は終わったが、言葉と理屈を武器とする、もう一つの戦いが彼を待っていた。
(新太、そして弥助たち……あんたらの居場所は、俺が必ず作る。どんな手を使ってでも)
源次は、夜明けの光に染まる城の方角を、静かに、そして強く見据えていた。