第195節『友の盾』
第195節『友の盾』
血に濡れた刃が、源次の喉元へと迫る。
時間が、引き延ばされたかのように遅くなる。死を覚悟した源次の脳裏に、いくつもの光景が走馬灯のように駆け巡った。現代の書斎の埃っぽい匂い、井伊谷の穏やかな田園風景、新太と酌み交わした酒の味。そして最後に、くっきりと浮かび上がったのは、峠道で見送ってくれた、あの人の姿だった。
(ああ……直虎様……! せっかくあんたに会えたのに、あんたの未来を守ると誓ったのに、俺はこんな所で……! まだ何も返せていない! あんたが笑って暮らせる世を、この目で見届けるまでは、死ねるか……死んでたまるかぁぁぁっ!)
魂が絶叫した、その瞬間。
――キィィィン!
鼓膜を突き破るような、甲高い金属音が響き渡った。
衝撃。しかし、それは肉を断つ感触ではない。
恐る恐る目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
振り下ろされた敵将の刀を、横合いから突き出された一本の槍が、寸でのところで受け止めている。槍の穂先と刀の刃が噛み合い、火花を散らしていた。
その槍の主は――新太だった。
「……新太!」
源次の口から、かすれた声が漏れた。
彼は、乱戦の只中にいたはずだ。どうやって、この一瞬でここに。
新太は、源次を振り返らなかった。その背中は、まるで岩壁のように大きく、源次を庇うように立ちはだかっている。
「……貴様の相手は、この俺だ」
地を這うような低い声が、偽装部隊の指揮官に向けられる。その瞳は、もはや人間のそれではない。友を傷つけようとした者に向ける、獣の怒りに燃えていた。
指揮官は、信じられぬという顔で舌打ちした。
「化け物めが……! なぜ、貴様がここに!」
彼は、源次の首を取ることだけを考えていた。まさか、あれほどの乱戦の中から、この鬼神がピンポイントで駆けつけてくるとは、全くの想定外だった。
(間に合った……!)
源次は、安堵の息を吐いた。
彼は、敵将が自分に向かって突撃してくるのを認識した瞬間、最後の賭けとして、近くにいた伝令にただ一言だけ叫んでいたのだ。
「新太を呼べ!」と。
この乱戦の中で声が届く保証はなかった。新太が間に合う保証もなかった。だが、源次は賭けたのだ。友との絆という、戦場の理屈を超えたただ一点の可能性に。そして、友はその賭けに完璧に応えてくれた。
「邪魔だ、源次! 下がってろ!」
新太の叱咤が飛ぶ。
彼は槍を押し返し、敵将との間にわずかな間合いを作ると、源次に背を向けたまま、再び槍を構え直した。それは、自らの背中を完全に友に預ける、絶対的な信頼の証だった。
指揮官もまた、馬上で刀を構え直す。
「面白い! 鬼神とやら、その首、俺が貰い受ける!」
武田の武士としての誇りを賭けた、二人の将による壮絶な一騎打ちが、今まさに始まろうとしていた。槍と刀が火花を散らし、馬が嘶き、土煙が舞い上がる。
その光景を目の当たりにした弥助は、自らが率いる部隊に向かって叫んだ。
「全軍、聞け! あれは、我らが主・新太様の戦いだ! 何人たりとも、あのお方の邪魔をさせるな! 周囲の雑兵を食い止めよ!」
武田に見捨てられ、行き場を失った彼らにとって、自分たちを命がけで救い出し、戦うべき道を示してくれた新太は、もはや単なるかつての隊長ではなかった。忠誠を誓うべき唯一無二の主であった。弥助たちが率いる元武田兵たちは、その主の戦いを守るため、周囲から殺到しようとする偽装部隊の雑兵を食い止める、鉄の壁となった。
激闘の末、勝負を決めたのは、一瞬の隙だった。
指揮官の振り下ろした刀が、新太の肩の鎧を浅く切り裂く。だが、新太はその痛みに怯むことなく、逆に懐へと踏み込んでいた。
「もらった!」
指揮官の顔に、勝利の笑みが浮かんだ。だが、それは彼の最後の表情となった。
新太の槍は、もはや彼の手にない。彼は槍を捨て、腰に差していた脇差を抜き放っていたのだ。踏み込んだ勢いのまま、指揮官の鎧の隙間――脇腹の奥深くへと、その刃を突き立てた。
「ぐ……あ……」
指揮官の目から光が消え、彼は馬から崩れ落ちた。
偽装部隊は、その頭領を失い、完全に崩壊した。
新太は、返り血を浴びたまま、静かに脇差を鞘に納めた。そして、源次へと向き直る。
「……言ったろ。俺は、あんたの槍だって」
その顔には、いつもの不敵な笑みが浮かんでいた。
新太は、文字通り友を守る「盾」となり、そして敵を討つ「槍」となったのだ。