第192節『なぜ来た』
第192節『なぜ来た』
「おおおおっ!」
死の淵から引き戻された兵士たちの鬨の声が、谷間に響き渡った。それはもはや武田の兵としての雄叫びではない。生きることを許された者たちの、魂からの咆哮だった。彼らは新太の指示通り、救援に来た源次の部隊と合流し、一つの大きな塊となって偽装部隊への反撃を開始した。
戦況は完全に逆転した。狩人であったはずの偽装部隊は、今や二方向から猛攻を受け、為す術もなく崩れていく。
その乱戦の只中、部隊長であった弥助は、馬を駆って鬼神のごとく戦う新太の隣に並んだ。彼の顔には、まだ血の気が戻っていない。安堵よりも、理解を超えた出来事への混乱が、その瞳を支配していた。
「新太様……!」
兜の隙間から見える新太の横顔に、彼は必死に声をかけた。
「まことに、新太様なのですね……! 生きて、おられたか!」
新太は敵兵の槍を弾き返しながら、一瞬だけ弥助に視線を向けた。
「……弥助か。無事だったか。当たり前だ、俺は生きている」
そのぶっきらぼうな口調は、昔と何も変わらなかった。そのことに、弥助の胸に熱いものがこみ上げる。だが、それ以上に大きな疑問が、彼の心を締め付けていた。
「なぜ……!」
弥助の叫びは、刃の交わる音にかき消されそうだった。
「なぜ、ここに! 我らはもう、武田に見捨てられたはず! なぜ、行方不明であった貴殿が、命を懸けてまで我らを! これは一体、どういうことなのです!」
彼の声は、感謝よりも、幾度も捨てられた者の、悲痛な響きを帯びていた。
新太は、正面から突撃してくる敵兵を槍で貫き、馬上から引きずり下ろした。返り血を浴びながら、彼は静かに、しかし力強く答えた。
「俺はもう、武田の者ではない」
その一言に、弥助は息を呑んだ。
「俺は、井伊の将だ。そして、あの男の友だ」
新太の視線が、後方で冷静に全軍の指揮を執る源次へと向けられる。
「見捨てられたお前たちを救うと決めたのは、俺じゃない。あの男だ。俺は、ただその槍としてここにいるに過ぎん」
弥助は、丘の上で軍配を振るう源次の姿を改めて見つめた。
(あの男が新太様の指揮官……。自分たちを救うために、自らこの死地に駆けつけてくれたというのか……?)
その信じがたい事実に、彼は戦慄した。武士の世において、敵を救うなどという行為は、狂気の沙汰としか思えなかったからだ。だが、その狂気が今、自分たちの命を救っている。この男の決断がなければ、自分たちは今頃、ただの屍と成り果てていた。その紛れもない事実が、弥助の凝り固まった常識を揺さぶり始めていた。
「……信じられぬ」
「信じる信じないは、後で決めろ」と新太は言い放った。「今はただ、生き延びることだけを考えろ! 俺の背中から離れるな!」
新太は再び槍を構え、敵陣の最も薄い一点へと突撃を開始した。弥助は一瞬の逡巡の後、全ての疑念を振り払い、部下たちに檄を飛ばした。
「聞いたか! 我らの命は、井伊の軍に預けられた! 新太様と共に、この地獄を切り抜けるぞ!」
兵士たちの目に、再び闘志の火が灯った。
彼らは、まだこの戦の全貌を理解してはいない。だが、信じるべき背中が、そこには確かにあった。