第191節『救援』
第191節『救援』
「弓を構えよ! 距離を取り、矢の雨で仕留めるぞ!」
偽装部隊の指揮官が勝利を確信し、非情な命令を下した、まさにその時だった。
戦場の側面、誰も警戒していなかった森の闇が、突如として牙を剥いた。
「かかれぇええええッ!」
源次の号令が、夜の谷間に雷鳴のごとく轟いた。
その声に応えるかのように、新太が率いる十数騎が、獣の群れのごとく偽装部隊の側面へと突撃した。彼らは弓を構えるために足を止め、完全に無防備となっていた敵兵の隊列に、熱した刃が肉を断つように深く食い込んだ。
「なっ……伏兵か!? どこから!」
偽装部隊の指揮官が驚愕の声を上げる。彼らの意識は、目の前の「獲物」を仕留めることに完全に集中していた。まさか、この完璧な罠の、さらに外側から別の狩人が現れるとは夢にも思っていなかったのだ。その油断が、致命的な隙となった。
彼の油断には、明確な理由があった。
出陣前、馬場信春は彼にこう命じていた。「例の遊撃隊がちょっかいを出してくるやもしれぬ。だが、奴らはせいぜい数十の鼠。大勢には影響なし。貴様らの任務はただ一つ、殿軍部隊を確実に殲滅すること。他の小事には構うな」と。
指揮官にとって、これは「遊撃隊は現れるかもしれないが、無視してよい些事である」という命令に等しかった。彼の頭の中では、主君からの厳命である「粛清任務の完遂」こそが最優先事項。側方からの小規模な奇襲など、任務達成後の残敵掃討で対処すればよいと、完全に侮りきっていたのだ。
「うおおおおおおっ!」
その混乱の先頭で、新太の槍が嵐のように荒れ狂った。彼の咆哮は、友を裏切った者たちへの怒りに満ちていた。槍先は、弓を構えようとしていた兵士たちの胸や喉を次々と貫き、その勢いは誰にも止められない。側面を突かれた偽装部隊の陣形は、いとも容易く崩壊した。
「敵は少数だ! 落ち着け、囲んで叩け!」
指揮官が必死に立て直そうと声を張り上げる。だが、その声は別の方向からのかけ声に掻き消された。
「今だ! 谷を駆け下りるぞ!」
源次が率いる本隊が、正面の丘の上から一斉に鬨の声を上げ、松明を掲げて駆け下りてきたのだ。実際には数十人に満たない部隊。だが、闇の中で揺れる無数の松明の光は、まるで数百の軍勢が押し寄せてくるかのような錯覚を敵に与えた。
「ば、馬鹿な! 遊撃隊じゃないのか?徳川の本体か!? なぜここに!」
偽装部隊の指揮官は完全に狼狽した。彼の頭には「徳川本隊は来ない」「来るとしても数十の遊撃隊だけだ」という前提が焼き付いている。だが、目の前の光景は、その前提を根底から覆していた。側面からは鬼神の如き猛将に蹂-躙され、正面からは数百(に見える)の本隊が押し寄せてくる。
指揮官の脳裏に、陣中で囁かれていた噂が稲妻のように駆け巡った。
(まさか……噂に聞く徳川の軍師は、この全てを読んでいたというのか……!? 我らは……我らこそが罠にはめられたのか!)
指揮系統は麻痺し、偽装部隊の兵士たちは右往左往するばかり。
その隙を、源次は見逃さなかった。
「退け! 目的は戦闘ではない! 孤立した部隊を救出し、ただちに離脱する!」
源次の本隊は、敵兵との戦闘を巧みに避けながら、谷底で孤立していた「捨て駒」部隊へと一直線に突き進んだ。
絶望の淵にいた部隊長・弥助は、目の前で繰り広げられる光景が信じられなかった。
(……何が起きているのだ?)
自分たちを殲滅しようとしていたはずの「徳川軍」が、突如現れた部隊に側面と背後を突かれ、混乱に陥っている。
(敵が……敵を討っている……? まさか……国衆が我ら武田に寝返ったとでもいうのか!?)
この時代の戦では、昨日まで敵だった国衆が、戦の趨勢を見て味方に寝返ることは日常茶飯事だ。弥助にとって、目の前の光景を説明できる唯一の論理は、それしかなかった。
そこへ、血と泥にまみれた源次が馬を寄せた。
「聞こえるか! 我は源次! あなたがたの命、預かりに来た! この地獄から離脱する! 我らに続け!」
その力強い声に、弥助ははっと我に返った。「源次……だと……? なぜ我らを……」
なぜ見ず知らずの男が。その疑問が浮かぶよりも早く、彼の目に信じられない光景が飛び込んできた。
偽装部隊の側面を蹂躙する、あの鬼神のごとき猛将。その槍筋、その咆哮。たとえ兜で顔が見えずとも、弥助には分かった。共に戦場を駆け、背中を預け合った、ただ一人の男。
「……まさか……新太、様……?」
その混乱の極みで、新太は敵兵を薙ぎ払いながら、かつての仲間たちが固まる円陣の前までたどり着いた。血飛沫を浴びたその顔は、まさしく鬼神。だが、その瞳は確かに、彼らを案じる光を宿していた。
「弥助! 聞こえるか! 源次殿は味方だ! 徳川の旗を掲げた奴らのみが敵だ! 俺に続け! 生きるぞ!」
新太は、源次が率いる井桁紋の旗を味方と断じ、葵の御紋を掲げた部隊を明確に「敵」だと指し示した。
その力強い声が、弥助と兵士たちの最後の疑念を吹き飛ばした。
(源次殿……あの男が……味方……!)
目の前で戦う新太の姿、そしてその新太が「味方だ」と断言する男。何を信ずるべきかなどは、もはや関係なかった。自分たちは、味方に捨て駒にされ、そして敵であったはずの者たちに救われようとしているのだ。
絶望に沈んでいた兵士たちの目に、にわかに生気が蘇る。彼らは最後の力を振り絞り、折れた槍を握り直し、新たな活路を開くために声を張り上げた。
「おおおおっ!」
戦場の流れは、この瞬間、完全に変わった。