第190節『罠の中へ』
第190節『罠の中へ』
「かかれぇええええッ!」
源次の号令が、夜の谷間に雷鳴のごとく轟いた。
丘の稜線に息を殺していた精鋭部隊が、一斉に動き出したのだ。
まず動いたのは、新太が率いる十数騎の遊撃隊だった。彼らは獣の群れのごとく崖を駆け下り、偽装部隊の完全に無防備となっていた側面へと、一本の槍のように突き刺さった。
「なっ……遊撃隊か!? いつの間に背後へ回り込んだ!」
偽装部隊の指揮官が驚愕の声を上げる。彼らの意識は、目の前の「獲物」を仕留めることに完全に集中していた。待ち構えていたはずの敵が、全く予期せぬ方向から現れたのだ。その油断が、致命的な隙となった。
「うおおおおおおっ!」
その混乱の先頭で、新太の槍が嵐のように荒れ狂った。彼の咆哮は、友を裏切った者たちへの怒りに満ちていた。槍先は、弓を構えようとしていた兵士たちの胸や喉を次々と貫き、その勢いは誰にも止められない。側面を突かれた偽装部隊の陣形は、いとも容易く崩壊し始めた。
「敵は少数だ! 落ち着け、囲んで叩け!」
指揮官が必死に立て直そうと声を張り上げる。だが、その声は別の方向からのかけ声に掻き消された。
「今だ! 谷を駆け下りるぞ!」
源次が率いる本隊が、正面の丘の上から一斉に鬨の声を上げ、松明を掲げて駆け下りてきたのだ。実際には数十人に満たない部隊。だが、闇の中で揺れる無数の松明の光は、まるで数百の軍勢が押し寄せてくるかのような錯覚を敵に与えた。
「ば、馬鹿な! 遊撃隊だけではなかったのか!? なぜ本隊までがここに!」
偽装部隊の指揮官は完全に狼狽した。出陣前、馬場信春は彼にこう命じていた。「例の遊撃隊がちょっかいを出してくるやもしれぬ。だが、奴らはせいぜい数十の鼠。大勢には影響なし。貴様らの任務はただ一つ、殿軍部隊を確実に殲滅すること。他の小事には構うな」と。その言葉を信じ、遊撃隊は少数だと侮りきっていたのだ。だが、目の前の光景は、その前提を根底から覆していた。側面からは鬼神の如き猛将に蹂躙され、正面からは数百(に見える)の本隊が押し寄せてくる。
(まさか……噂に聞く軍師は、この全てを読んでいたというのか……!? 我らは……我らこそが罠にはめられたのか!)
指揮系統は麻痺し、偽装部隊の兵士たちは右往左往するばかり。
谷底で円陣を組んでいた弥助たちは、その予期せぬ光景に呆然としていた。
「なんだ!? 敵の増援か……? いや、違う! あの旗印は井伊……!」
混乱する彼らの前を、敵兵を薙ぎ払いながら駆け抜けていく鬼神の姿。その槍筋、その咆哮。たとえ兜で顔が見えずとも、弥助には分かった。共に戦場を駆け、背中を預け合った、ただ一人の男。
「……まさか……新太、様……?」