第19節『噂の男』
第19節『噂の男』
足軽長屋の夜は、炊ぎの煙と酒の匂いに包まれていた。訓練を終えた若い足軽たちが、飯をかき込みながら一日の出来事を語り合っている。
話題の中心にあるのは、やはり源次だった。
「見たか? この間の槍稽古でのことだ。源次殿の言った通りに握りを少し変えただけで、振りが嘘みたいに軽くなったんだ」
「そうだそうだ。俺も試したら、肩の力が抜けてな。まるで潮に舟を任せるみたいに槍が動くんだよ」
「はは、漁師上がりだからこそ知ってる技ってやつだな。潮の流れを読むように、人の動きも読むんだろうさ」
彼らの声には憧れが混じっていた。源次は決して高慢に振る舞わず、同じ目線で物を教える。だからこそ、足軽たちは彼を慕う。
噂は尾ひれをつけ、やがて「源次殿に教われば、どんな者でも一人前になれる」とまで言われ始めていた。
一方、城内の廊下や評定の隅では、別の声が囁かれていた。
「……どうにも妙だ。あの男、姫様に取り入ろうとしているのではないか?」
「いや、実際に兵たちの技量を引き上げているのは確かだ。無下にはできぬ」
「中野様は警戒を強めておられるぞ。あまりに姫様に近づきすぎれば、井伊家の秩序が乱れる」
「ふむ、しかし才を持つ者を疎むのもまた愚かよ」
家臣団の空気は二分されつつあった。実力を認める者、猜疑を抱く者。そのいずれもが、源次を「ただの足軽」とは見ていなかった。
まるで一つの石を中心に、波紋が広がっていくように、源次の存在は組織の均衡を揺さぶり始めていた。
さらに噂は、城下の町へと流れ出す。
井戸端で桶を並べる女たちが、声を潜めて囁いた。
「ねえ知ってる? 館に、不思議な漁師上がりがいるんだって」
「聞いた聞いた。なんでも川の流れを止めたって話だよ」
「馬鹿言うんじゃないよ。川を止められる人間がいるわけないだろう」
「でもさ、姫様のお気に入りなんだと。顔立ちも悪くないらしいよ」
「ほら始まった。どうせ誰かが大げさに言ってるんだろうさ」
町の者にとって源次は、実在の人物であると同時に、語り草でもあった。現実の功績は次第に脚色され、荒唐無稽な武勇譚に仕立て上げられていく。
源次が城下に降りた際、その声を耳にして思わず足を止めた。
「(川の流れを止めた……? そんな大それたこと、俺はしていない)」
だが同時に、心の奥で自覚が芽生える。
――自分は、もうただの足軽ではいられない。人々の想像が勝手に形を与え、望むと望まざるとに関わらず「現象」へと変貌していく。
ある日の昼下がり、源次は突然の呼び出しを受けた。使いの小姓が告げた言葉に、周囲の兵たちは息を呑む。
「姫様が……直々に源次殿を呼ばれると」
足軽が一人で呼び出されるなど、前代未聞である。
羨望と驚愕の視線が背中に突き刺さる中、源次は胸の奥の鼓動を抑えながら廊下を歩いた。
広間に通されると、直虎が待っていた。華美ではないが凛とした姿は、ただそこに座しているだけで場を支配する。
源次は膝をつき、深く頭を下げた。
「……参上仕りました」
直虎は柔らかい微笑を浮かべると、意外な問いを投げかけてきた。
「そなたが暮らしておった浜名湖では、冬の魚は何が獲れる?」
一瞬、源次は面食らった。しかし、すぐに悟る。
これは単なる世間話ではない。自分の知識の幅と深さを測る試しなのだ。
「冬ならば……氷魚が群れを成します。小ぶりですが群がるゆえ、網を仕掛ければ一度に数多く獲れまする」
「ほう」
直虎の瞳がわずかに細まる。続けて矢継ぎ早に問う。
「では塩の値は今、どうなっておる?」
「駿府より運ばれる分が細り、値は上がっております。ゆえに浜の者は干物に工夫を凝らし、保存を利かせる工法を模索しております」
「なるほど。漁師とは、ただ魚を獲るのみではないのだな」
澱みなく答える源次に、直虎は満足げな笑みを浮かべた。
それは試しに合格した者へ向けられる評価の色を帯びていた。
源次の胸中に、確信が広がる。
――これは面接だ。俺の価値を値踏みされている。
彼は「漁師」という仮初めの顔を崩さず、未来の知識を過不足なく織り交ぜ、直虎の問いに応じ続けた。
やがて直虎は頷き、扇を閉じる。
「そなた、やはり只者ではないな」
その一言が、源次の心に深く刻まれた。
部屋を辞した後の廊下で、源次は思わぬ人物とすれ違った。
中野直之。井伊家の武断派を束ねる男だ。
直之は足を止め、何も言わずに源次を見据えた。
言葉はなくとも、その視線に込められた敵意は鋭い刃のように突き刺さる。
源次は黙って会釈し、その場を離れた。
廊下を歩きながら、胸の奥に重い実感が湧き上がる。
「(俺は、もはや一介の足軽ではいられない)」
直虎からの期待、仲間からの信頼、直之からの敵意。
そのすべてを背負う覚悟を迫られている。
目立つことは、リスクだ。だが埋もれていては、直虎を守ることなどできない。
「(この孤独……あの方も同じものを背負っておられるのだろう)」
評定で孤立する直虎の姿が脳裏に浮かぶ。
その孤独を共有する者として、自分と彼女の間には見えぬ絆が芽生えつつある。
源次は拳を握った。
噂の渦中に立つ己の立場を、ついに覚悟として受け入れたのだった。