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第189節『直虎の祈り』

第189節『直虎の祈り』

 友を救うための、あまりにも無謀な戦いが、今まさに始まろうとしていた。源次と新太が率いる部隊が、死地である谷間へとその身を投じようとしていた、まさにその瞬間――。


 ところかわって、遠州・井伊谷城。


 奥座敷は、しん、と静まり返っていた。

 障子越しに差し込む月明かりが、畳の上に置かれた小さな文箱を白く照らし出している。井伊直虎は、その前に正座したまま、もうどれほどの時を過ごしただろうか。

 数日前、浜松の源次から届いた早馬は、二つの報せをもたらした。一つは、徳川家臣団が源次の救出作戦に猛反対し、軍議が決裂したという絶望的な報告。そしてもう一つは、その状況を打開するために、自分が書いた書状を源次が切り札として使うという、あまりに重い決断だった。


「……行かせた。私は、あの者を再び死地へと行かせてしまった」

 独りごちる声は、夜の静寂に吸い込まれて消えた。

 傍らに控える老兵・重吉は、黙って火鉢の炭を掻き立てる。ぱち、と小さな火花が弾けた。

「直虎様。あやつは、ただの若造ではございませぬ。直虎様が信じてお選びになった、井伊の潮を読む男。必ずや、この難局も乗り越えましょう」


 直虎は、文箱にそっと手を触れた。

(わらわの書状一つで、本当にあの鉄の結束を誇る三河武士たちを動かせるというのか。もし、それでも彼らが動かなかったら? あの者は、友を見捨てられぬあまり、一人ででも無謀な戦に身を投じるやもしれぬ……)

 想像するだけで、心臓が氷の手に掴まれたように冷たくなる。

 だが、彼女の脳裏に、これまでの彼の軌跡が蘇った。佐久間川で不可能と思われた勝利をもたらした、あの奇策。誰もが尻込みした徳川との同盟を、たった一人で成し遂げた胆力。そして、先の敗戦の中で唯一、井伊の兵を見事に生還させた、神がかり的な采配。

(あの男は、常にわらわの想像を超えてきた。常識の壁を、いとも容易く打ち破ってきたのだ。ならば、賭けるしかない。そもそも、あの源次という男こそが、もはやこの井伊家の未来そのもの。あやつを失えば、我らに明日はない。ならば、家の全てを賭けてでも、あやつの信じる道を守り抜くのが、領主としてのわらわの務めじゃ)


 その時、廊下を駆ける慌ただしい足音が、二人の耳に届いた。

「申し上げます! 浜松より急使にございます!」

 直虎と重吉は、はっと顔を見合わせた。

 障子を開けて入ってきた使者は、泥と汗にまみれていたが、その顔には疲労ではなく、確かな興奮の色が浮かんでいた。彼は膝をつくと、一通の短い書状を差し出した。

 源次からの、第二報だった。


 震える手で封を切る。そこに記されていたのは、簡潔だが、直虎が最も聞きたかった言葉だった。

「――直虎様の御言葉、確かに家康殿の心を動かしました。これより、友の救出に向かいます。ご恩、この命に代えましても」

 短い文面から、彼の感謝と、そして死地へ向かう覚悟が痛いほど伝わってきた。

「……そうか。徳川は……動いてくれたか」

 直虎の肩から、ふっと力が抜けた。安堵のあまり、涙が滲む。


 だが、安堵は束の間だった。

 直虎は、書状の最後の一文に目を落としたまま、顔を上げた。その表情は、再び領主としての厳しいものに戻っていた。

「……重吉。今、源次たちはどこにおる」

「はっ。この時刻ですと、すでに出陣し、武田の捨て駒部隊が追い詰められている谷間に到着している頃かと……」

 直虎は立ち上がると、窓を開け放ち、遠い西の空を見やった。空は厚い雲に覆われ、星も見えない。

(今頃、あの者は戦の只中にいるのか。新太殿と共に、刃を振るい、血を浴びて……)

 胸が締め付けられる。自分は、この安全な城の中から、ただ祈ることしかできない。その無力さが、彼女を苛んだ。


(源次……そなたは、一体何者なのだ)

 彼女の脳裏に、初めて会った日の、あの若者の姿が浮かぶ。全てを失ったと語りながら、その瞳の奥には不思議な光が宿っていた。

(そなたのわらわへの忠義は、常軌を逸しておる。それは、ただ家を失った者が新たな主に尽くすという、単純な恩義や帰属意識だけではあるまい)

 彼女は感じていた。源次が自分に見ているのは、井伊直虎という生身の女ではない。彼の中にある何か「理想の姿」――あるいは、彼が創り上げたいと願う「泰平の世の象徴」のようなものを、わらわに投影しているのではないか、と。

(だからこそ、そなたの忠義には一切の私欲がない。だが、それゆえに危うい。もし、わらわがそなたの『理想』に応えられぬ時が来たなら……その強烈な想いは、どこへ向かうのだ?)

 その神がかり的な知略も、この時代の人間とは思えぬ発想も、全てが彼の得体の知れなさを際立たせる。彼を信じたい。心から信じている。だが同時に、心のどこかで、理解しきれぬ存在への畏れが消えることはなかった。


「……死ぬなよ、源次」

 夜の闇に向かって呟いた声は、領主の命令ではなかった。

 ただ、大切な者の無事を祈る、一人の女の、魂の叫びだった。

 重吉は、その背中を、ただ黙って見守るしかなかった。

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