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第187節『友への道』

第187節『友への道』

「……分かった」

 家康の静かな、しかし確信に満ちた一言が、評定の間に重く響いた。

 その瞬間、張り詰めていた空気の糸が、ぷつりと切れた。源次は、安堵のあまりその場に崩れ落ちそうになる膝を、必死に叱咤して支えた。

 徳川の将たちは、まだ信じられぬという顔で互いに顔を見合わせている。だが、主君の決断は絶対だ。大久保忠世は苦々しく顔を歪め、榊原康政は静かに頷き、源次の顔をじっと見つめていた。その瞳には、もはや侮りの色はない。畏怖と、そしてかすかな好奇心が宿っていた。


 家康は立ち上がると、源次の前に進み出た。

「源次殿。そなたと、そなたの主君の覚悟、しかと受け取った」

 その声には、もはや昨夜までの冷たさはない。同じ覚悟を背負う者同士の、静かな共感がそこにあった。

「ただし、条件がある」

 広間が再び緊張に包まれる。

「此度の出陣は、あくまで井伊家の独断として行う。我が徳川の兵は、先の戦の傷が癒えておらぬ故、動かせぬ。……表向きは、な」

 家康はそこで言葉を切り、悪戯っぽく口の端を上げた。

「だが、傷の浅い若者どもが、武者修行と称して勝手に陣を抜け出すのを、儂に止める手立てはない。彼らがどこで何をしようと、それは儂の知ったことではない。……そういうことにしておこう」


 それは、家康なりの最大限の譲歩であり、援護だった。連合軍の総大将として公に命令違反を許可することはできないが、「黙認」という形で抜け道を作る。だがそれ以上に、直虎と源次が示した覚悟に対し、自らも武人として応えねばならぬ――その真っ直ぐな気性が、彼にこの「黙認」という抜け道を選ばせたのだ。

 源次は、その言葉の裏にある不器用な優しさと深謀遠慮を瞬時に理解し、深く頭を下げた。

「……その御配慮、身に沁みまする」

(やるじゃねえか、家康……! ただ槍を振り回すだけの男ではなかったということか。理屈じゃなく、心意気で応えてくれるとはな。最高のツンデレかよ。この借りは、必ず戦果で返してやる!)


 家康は満足げに頷くと、最後に付け加えた。「必ず、生きて戻れ。そして、約束通り、武田の精兵を手土産に連れてくるのだぞ。期待しておるぞ、我が友よ」

 その言葉を背に、源次は評定の間を辞した。

 彼の胸には、灼けつくような熱いものが込み上げていた。

(直虎様の信頼、家康の期待、そして新太の涙……! 全部だ! 全部背負って、俺は行くぞ!)

(見てろよ、直虎様! あんたが信じてくれた俺は、友の涙も見捨てないし、敵将の懐にも飛び込んで、不可能を可能にしてみせる! これが俺の推し活だ!)

 彼はこれから死地へと向かうのだ。


 出陣の準備は、迅速に進められた。

 源次の決意に心を動かされた井伊の兵たちに加え、家康の「黙認」の下、徳川の若武者たちが次々と「武者修行」と称して馳せ参じた。彼らにとって、これは主君が表立って命じられない「裏の任務」であり、それに志願することこそが、真の忠義を示す機会だと映ったのだ。

 夜。数十の精鋭部隊が、浜松城の裏門から音もなく滑り出した。

 その先頭には、源次と、そして静かに闘志を燃やす新太の姿があった。

 源次は、闇に包まれた西の空を見上げた。その向こうで、友のかつての仲間たちが、死の淵に立っている。

(待ってろ。必ず助け出す)

 彼の心は、もはや軍師ではなかった。ただ、友との約束を果たすために、人としての道を貫こうとする、一人の男の心がそこにあった。

 部隊は、夜の闇へと静かに溶けていった。

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