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第186節『魂の言葉』

第186節『魂の言葉』

 朝日が天幕の隙間から差し込み、床に広げられた地図を白く照らし出していた。

 徳川家康は、腕を組んだまま眉間に深い皺を寄せ、沈黙している。彼の前には、本多忠勝、大久保忠世、榊原康政ら、徳川家の屋台骨を支える重臣たちが居並ぶ。彼らの表情もまた、一様に険しい。

 評定の間は、昨夜決裂した軍議の冷え切った空気と、新たな朝の緊張が混じり合い、息苦しいほどに静まり返っていた。


 その静寂を破ったのは、天幕の外から響く、一人の男の慌ただしい足音だった。

 幕が乱暴に跳ね上げられ、息を切らした源次が姿を現した。その瞳は決意に燃え、手には一通の書状が固く握りしめられている。

「源次殿! いかがされた!」

 榊原康政が驚きの声を上げる。彼の顔には、友の暴走を止められなかった男への、わずかな憐れみの色が浮かんでいた。

 だが、源次の様子は彼らの予想とは全く違っていた。憔悴も絶望もない。むしろ、これから戦に臨む将のような、凄まじい気迫がみなぎっていた。


「皆様! 再び軍議の場を設けていただき、感謝いたします!」

 源次は広間の中央に進み出ると、深々と頭を下げた。そして、顔を上げると、居並ぶ徳川の将たちを一人ひとり見渡し、力強く言い放った。

「昨夜、私は皆様を説き伏せることができませんでした。私の言葉が足らず、皆様の信を得られなかったこと、お詫び申し上げます。しかし――」

 彼は一度言葉を切り、握りしめた書状を天にかざした。

「この書状にしたためられしは、私個人の言葉ではございませぬ! 我が主君・井伊直虎様が、徳川の盟友として、家康様、そして皆様に宛てた、魂の言葉にございます!」


 その一言に、広間の空気が一変した。

 徳川の将たちが息を呑む。井伊家の当主自らが、この軍議に直接介入してきたのだ。先の戦で源次が見せた神がかり的な知略により、今や連合軍にとって井伊家は「ただの小国」ではなく、「勝利に不可欠な頭脳を持つ、特別な存在」へとその価値を変えていた。その特別な同盟相手の当主から、家と家の関係を揺るがしかねない覚悟で送られてきた書状。その重みを、この場にいる誰もが無視することはできなかった。

 家康が、重々しく口を開いた。

「……読め」


 源次は頷くと、書状を広げ、その文面を朗々と読み上げた。直虎の、凛としながらも情愛に満ちた声が、まるで乗り移ったかのように。

「――我が軍師・源次の申し出は、あるいは武家の常識に外れた、甘き戯言と映りましょう。されど、彼の者は申しております。『友を見捨てて得る勝利に、真の誉れはない』と。そして、その友とは、元は武田の精兵。彼らを救い、味方とすることは、徳川様の未来にとって、計り知れぬほどの『利』となりましょう」

 本多忠勝が、ぐっと唇を噛む。


「――情けは人のためならず。今日、我らが救う命は、明日、必ずや徳川様をお救いする刃となりましょう。どうか、我が軍師が示した『情』と『利』、その二つを信じてはいただけませぬか。この井伊直虎、我が家の全てを賭して、その成果をお約束いたします」

 読み終えた瞬間、広間は完全な沈黙に包まれた。


 直虎の言葉は、完璧だった。

 徳川の武将たちが重んじる「武士の情け」に訴えかけながら、同時に彼らが最も好む「実利」をも明確に提示している。そして何より、井伊家の当主自らが「家の全てを賭して約束する」とまで言い切っているのだ。

(直虎様が「家を賭ける」と言った。それは、この作戦の成否に井伊家の存亡を賭けるという意味だけではない。彼女は、俺という存在そのものに、井伊家の未来の全てを賭けてくれているんだ)

 これほどの覚悟を示されて、もはや「私情だ」「罠だ」と反対できる者はいなかった。

 大久保忠世は、腕を組み、深く唸った。「……一本、取られたわ」


 源次は、内心で叫んでいた。

(直虎様……! あんた、最高だよ! 俺が言いたいこと、全部言ってくれた! しかも、俺なんかより百万倍説得力ある言葉で! これが推しの力……! この信頼に応えられずして、何が家臣か!)

 彼は込み上げる感動を抑え、最後の楔を刺す。

「皆様! 我が主君は、覚悟を示されました。もはや、これは私個人の戦ではございません。井伊家と徳川家が、真の盟友として共に未来を掴むための、最初の試練にございます! どうか、我らにご助力くだされ!」

 彼はその場で、徳川の将たちに向かって、深く、深く頭を下げた。

 広間に、長い沈黙が落ちた。

 やがて、その沈黙を破ったのは、家康の静かな、しかし確信に満ちた一言だった。

「……分かった」

 軍議は、ついに覆った。

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