第185節『一条の光』
第185節『一条の光』
友が死地へ向かうのを、黙って見送ることしかできない。
その絶望的な光景が、源次の瞳に焼き付いた。冷たい夜風が、彼の頬を打つ。
新太の背中が、闇に溶け込もうとした、その瞬間――。
「お待ちくだされ、源次殿!」
天幕の外から、切羽詰まった声が響いた。
泥にまみれた使者が、松明の光の中に転がり込むように姿を現す。その手には、小さな竹筒が握られていた。
「井伊谷より、急使にございます!」
源次と新太は、はっと息を呑んで振り返った。
使者は、源次の前に膝をつくと、震える手で竹筒を差し出した。
「直虎様より……軍議が紛糾した折にのみ、お渡しせよと……」
源次は、その言葉に戦慄した。
(直虎様……! 俺がこうなることまで、読んでいたというのか……!?)
竹筒から取り出した小さな巻物を広げる。そこに記されていたのは、簡潔だが、源次の心を射抜く、ただ一つの問いだった。
使者は一息つき、主君の言葉を、その声色までをも模倣するかのように、静かに、しかし凛とした響きで紡ぎ始めた。
「――軍師として利を説くか、人として情を選ぶか、お主の潮はどちらへ流れておる」
その言葉が耳に届いた瞬間、源次の心臓が大きく跳ねた。
凍り付いていた思考が、激しい熱によって一瞬で溶かされていく。
(直虎様……!)
彼女は、この状況を、俺の葛藤を、全て見抜いていたのか。そして、彼女は「こうしろ」とは命じなかった。「利を選べ」とも「情を選べ」とも言わなかった。ただ、問いかけたのだ。
お前は、どうしたいのか、と。
軍師としてではなく、源次という一人の人間として、どちらの道を選びたいのか、と。
その問いは、命令よりも重く、そして何よりも温かかった。それは、源次の魂そのものを肯定し、その決断を信じるという、絶対的な信頼の証だった。
「……ははっ」
乾いた笑いが、源次の喉から漏れた。
「ははははは……!」
彼は天を仰ぎ、声を上げて笑った。涙が、頬を伝っていく。
(そうか……そうだよな。俺は、いつから軍師なんていう窮屈な仮面を被っていたんだ。俺はただ、友の涙を見て見ぬふりができない、ただの男じゃないか。利だの、理だの、そんなものは後からどうとでもなる!)
心の奥底で、最後の枷が外れる音がした。
「決まっている……!」
源次は立ち上がった。その瞳には、もはや迷いも無力感もなかった。あるのは、燃え盛るような、ただ一つの決意。
「俺の潮は、いつだって一つだ!」
彼は使者から、もう一通の、家康に宛てられた正式な書状を受け取ると、それを固く握りしめた。
(直虎様は、俺が『情』を選ぶことすらも読んで、この次の一手を用意してくれていたんだ……!)
(この信頼……! 俺のすべてを理解し、その上で信じてくれる人がいる! これほどの幸福があるか! この想いに応えるためなら、俺はなんだってできる!)
「新太! 待ってろ、今、俺がお前を動かすための『理屈』を作ってやる!」
振り返りもせずに、源次は駆け出した。
向かう先は、徳川家康の本陣。
朝日が、彼の背中を力強く照らし出していた。それは、軍師の仮面を脱ぎ捨て、友を救うためにただの男として走り出した、彼の新たな始まりを告げる光だった。