第184節『絶望』
第184節『絶望』
軍議は決裂した。
源次の提案は、徳川の重臣たちが築いた「常識」と「正論」という名の分厚い壁の前に、脆くも砕け散った。広間には「これにて御免」という家康の冷たい一言だけが残り、武将たちは侮蔑と憐れみが入り混じった視線を源次に投げかけながら、一人、また一人と退出していった。
最後に残った本多忠勝が、去り際にぽつりと呟いた。
「源次殿。……友を思う心は、時に将の目を曇らせる。お忘れなさるな」
それは、彼なりの最後の忠告だった。
がらんとした広間に、源次は一人、膝をついたまま動けなかった。蝋燭の炎が消えかかり、長い影が畳の上に伸びている。
(……駄目だった)
胸の奥から、冷たい無力感が湧き上がってくる。知略も、実績も、この巨大な価値観の壁の前では何の意味もなさなかった。
(俺は……新太に、何と言えばいい?「無理だった、仲間は諦めろ」と? そんなこと、言えるはずがない……!)
源次は、ゆっくりと立ち上がった。足取りは、まるで鉛を引きずるように重い。彼が向かうべき場所は、一つしかなかった。
井伊の陣幕。その入り口で、新太は槍を地に突き立て、夜明け前の冷たい闇を見つめていた。軍議の結果を、彼はここでずっと待っていたのだ。
源次の足音に気づき、彼はゆっくりと振り返った。その瞳には、わずかな希望と、それを押し殺すような絶望の色が揺れていた。
「……源次殿」
声は、乾ききっていた。
源次は、彼の前に立ち、言葉を探した。だが、どんな慰めの言葉も、言い訳も、この状況では空々しく響くだけだった。
彼はただ、力なく首を横に振った。
「……すまない」
その一言で、全てを悟ったのだろう。
新太の瞳から、最後の光が消えた。彼は何も言わず、ただ再び闇へと視線を戻した。肩が、わずかに震えている。
「そうか……」
やて漏れた声は、感情というものが全て抜け落ちた、虚ろな響きだった。「……そうだよな。敵兵を助けるために、味方を危険に晒す馬鹿がいるか。俺が……俺が甘かったんだ」
自嘲するような笑いが、彼の喉から洩れた。
彼は槍の柄を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。そして、再び源次へと向き直った。その瞳には、もはや懇願の色はない。静かだが、燃えるような決意が宿っていた。
「源次殿。ならば、俺は行く」
「新太!?」
「一人ででも、行く。あんたや井伊家に迷惑はかけん。これより俺は、井伊の兵ではない。ただの脱走兵として、勝手に行く。 あいつらを見殺しにすることだけは、俺にはできん。たとえ犬死にしようとも、仲間と同じ場所で死ぬ。それが、俺にできる唯一の償いだ」
その瞳に宿っていたのは、狂気にも似た決死の覚悟だった。もはや、誰の言葉も彼には届かないだろう。
源次は、彼の肩を掴もうとして、その手を下ろした。
(駄目だ……俺の言葉じゃ、もうこいつは止められない。俺は……友一人救えないのか。直虎様を守ると誓っておきながら、そのすぐ隣にいる友一人……!)
胸を抉られるような罪悪感と無力感。軍師として采配を振るっていた時とは全く違う、一個の人間としての敗北が、彼の心を完全に打ちのめした。
(俺の知識も、知略も、結局はこの程度か。人の心を、友の魂を救うことすらできない……)
新太は、源次に背を向けた。闇の中へ、一人で消えていこうとしている。
その背中に、源次は何も言葉をかけられなかった。
ただ、友が死地へ向かうのを、黙って見送ることしかできない。
軍師としての仮面が剥がれ落ち、彼の顔にはただ、深い絶望の色だけが浮かんでいた。
遠くで、夜番の兵が咳払いをする声だけが、虚しく響いていた。