第183節『非情の策』
新太の魂の叫びを受け止めた源次の決意は、鋼のように固まっていた。 友を救う。そして、武田の精鋭を手に入れる。情と理、その両方を満たすために、彼はすぐさま行動を開始した。
夜明けを待たずして、浜松城の評定の間に徳川・井伊の主だった将たちが緊急に召集された。 蝋燭の炎が揺れ、眠い目をこする武将たちの間には、「何事か」という訝しげな空気が漂っている。連合軍が勝利ムードに包まれる中での、あまりに唐突な軍議であった。
その中心で、源次は広げられた地図を前に、今しがた直虎からもたらされた衝撃の情報を簡潔に、しかし力強く語った。
「――以上が、武田軍の殿部隊が置かれた現状にございます。彼らは捨て駒とされ、今まさに徳川軍に偽装した味方の別働隊によって、粛清されようとしております」
静まり返る広間に、彼は自らの決意を告げた。
「この源次、井伊の兵を率い、彼らの救出に向かいたく存じます!」
その言葉が落ちた瞬間、広間は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
「言語道断!」
最初に声を張り上げたのは、大久保忠世だった。彼は先の戦で負った腕の傷をかばいながらも、憤然と立ち上がった。
「武田の兵を救うだと? 彼らは敵ぞ! 敵が同士討ちをしようと、我らの知ったことではない! むしろ好機ではないか! 軍師殿は、先の勝利で血迷われたか!」
「いかにも!」と榊原康政も続く。いつもは冷静な彼の声にも、明らかな非難の色が滲んでいた。「それこそ敵将・馬場信春の罠やもしれぬ! 窮地に陥った部隊を救いに来た我らを、さらに大きな伏兵で叩く。敵が窮地に陥っているという情報自体が、我らをおびき出すための偽情報である可能性も捨てきれませぬ!」
徳川の将たちの反発は、無理もなかった。戦国時代の常識において、敵兵を助けるなどということはあり得ない。それは甘さであり、油断であり、自軍を滅ぼす愚行でしかなかった。
(分かってるさ、あんたたちの言い分は。この時代の常識じゃ、俺の言ってることはキチガイの戯言だ。同士討ちを放置して漁夫の利を得る。軍師としてはそっちの方が正しいのかもしれない。でもな……)
源次は、脳裏に浮かぶ新太の涙を振り払った。
(俺は、あんた達と同じ物差しで動いてるわけじゃないんだよ。友の涙を無視して手に入れた勝利に、何の意味がある!)
これまで沈黙を守っていた本多忠勝が、地を這うような低い声で源次に問うた。
「源次殿。貴殿の潮読みの才は、先の戦で証明された。俺も認めよう。だが、それとこれとは話が別だ。友を思うその心は武士として尊いが、その私情のために連合軍全体を危険に晒すというのか? 軍師とは、時に非情であるべきもの。その情の深さが、貴殿の最大の弱点ではないのか?」
それは、怒声よりも重く、源次の胸に突き刺さった。忠勝は、源次の能力を認めている。だからこそ、個人的な感情でその才を曇らせるなと、武士として真摯に忠告してくれているのだ。
(くそっ……どうすれば……! これまでは、俺の示す『利』と『合理性』で彼らを説得できた。だが、今回は違う。俺がやろうとしていることは、この時代の常識、彼らが命より重んじる武士の矜持そのものに反している。これは知略の戦いじゃない。価値観の戦争だ……!)
家康は、腕を組んだまま沈黙している。彼の裁定を待つまでもなく、広間の空気は完全に「反対」で支配されていた。
孤立無援。四方八方を敵意と正論の壁に囲まれ、源次は息が詰まるのを感じた。軍師としての弁舌も、これまでの実績も、この「武士の常識」という名の巨大な壁の前では無力だった。彼は初めて、転生者としての知識や知略では超えられない、価値観そのものの断絶に直面していた。
蝋燭の炎が揺れ、壁に映る彼の影が、ひどく小さく、頼りなく見えた。
源次は、完全に八方塞がりだった。