第182節『かつての仲間』
第182節『かつての仲間』
浜松城下の野営地に張られた、井伊家の簡素な天幕。その中で、源次は疲労困憊の身体を横たえていた。祝田の谷での勝利から数日が経ち、武田軍本隊はすでに遠江の国境を越え、甲斐への撤退を完了したとの報せが入っていた。新太が率いた遊撃隊もまた、執拗な追撃任務を終え、昨夜ようやく浜松へと帰還したばかりだった。連合軍には、戦の終わりを告げる安堵と、それに伴う弛緩した空気が漂い始めている。
だが、源次の心は晴れなかった。
(……まだだ。何かが腑に落ちない)
彼の脳裏には、馬場信春という老獪な将の顔が浮かんでいた。あの男が、これほどあっさりと、そして完全に撤退するだろうか。必ず何か、置き土産――あるいは、次なる戦のための非情な布石を打っているはずだ。その正体が見えないことが、源次の胸をざわつかせていた。
その予感が的中したかのように、天幕の外がにわかに騒がしくなった。
「申し上げます! 井伊谷より、急使にございます!」
鳥の便で届けられた報せは、直虎の諜報網が掴んだ、武田軍内部の最後の動きを記していた。源次は巻物を広げ、そこに記された文字を目で追ううちに、顔色を変えた。
「……やはり、ただでは帰らなかったか、あの鬼美濃め」
巻物には、馬場信春が撤退の殿軍として、新太のかつての仲間たちを「捨て駒」にしたこと、そして彼らを確実に殲滅するため、徳川軍に偽装した別働隊を差し向けたことが記されていた。偽装部隊はすぐに総攻撃をかけるのではなく、数日かけてじわじわと包囲網を狭め、獲物が完全に弱るのを待っている、とも。
その報せは、休息していた新太の耳にもすぐに入った。彼は血相を変え、源次の天幕へと転がり込んできた。
「源次殿!」
普段の彼からは想像もつかないほど切迫した声だった。その瞳は絶望に揺れている。
「俺の……俺のかつての仲間たちが……捨て駒にされる!」
猛将の仮面は剥がれ落ち、彼は自責の念に打ち震え、その場に崩れ落ちた。そして、これまでの人生で誰にも見せたことのない姿で、源次の前に額を擦り付けた。
「源次殿……頼む……!」
絞り出すような声は、もはや懇願ではなかった。魂の叫びだった。
「俺のわがままだとわかっている。だが、あいつらを助けてやってくれ……! 俺のせいで、あいつらが死ぬのは……耐えられん……!」
その背中は、鬼神ではなく、友の命を案じるただの苦悩する若者だった。
源次は、その姿を見つめながら、冷静な思考の裏で全く別のことを考えていた。
(うわ、マジか……。新太が土下座してやがる……。あのプライドの塊みたいな男が……。でも、ちょっと待てよ? これって、見方を変えれば最高のチャンスじゃないか?)
軍師としての冷徹な計算が、瞬時に働き始める。
(武田の精鋭が、上層部に裏切られて絶望している。そいつらを命がけで助けたらどうなる? 感謝どころじゃない、絶対的な忠誠を誓ってくるはずだ。しかも、そいつらは武田の内情を知り尽くしている。これ以上ない戦力アップじゃないか!)
友の涙を前にして、真っ先に「利」を計算してしまう自分に、源次は一瞬だけ嫌悪感を覚えた。
(……俺も、すっかりこの時代の人間になっちまったな。いや、これも全部、直虎様のためだ。綺麗事だけじゃ、あの人は守れないんだからな)
彼は心の切り替えを終えると、新太の肩に手を置いた。
その頃、武田軍の最後尾。冬の訪れを告げる冷たい風が吹き抜ける谷間で、その部隊は歩みを止めていた。
部隊長を務める男――かつて新太の右腕として戦場を駆けた歴戦の武士は、険しい顔で地図を睨んでいた。彼の周りには、同じように絶望と怒りを顔に刻んだ兵たちが集まっている。
「……やはり、我らは見捨てられたのだな」
誰かが吐き捨てるように言った。
「本隊はとうにこの谷を抜け、安全な場所へ向かっている。我らだけが、ここで徳川の追撃を待てと……。馬場様は、我らを犬死にさせるおつもりだ」
「新太様さえいてくだされば……! あの御方がいれば、こんな理不尽な命令には……!」
別の兵が、悔しげに槍の柄を叩く。彼らの心にあるのは、もはや武田家への忠誠心ではなかった。かつての隊長であった新太への思慕と、自分たちを捨て駒にした上層部への激しい憎しみ。
部隊長の男は、静かに立ち上がった。
「……死ぬのは同じか」
その声は、不思議なほど落ち着いていた。
「どうせ死ぬのなら、敵に背を向けて斬られる臆病者として死ぬか。それとも、武田の兵として、最後まで誇り高く戦って死ぬか。……俺は、後者を選ぶ」
彼は槍を握り直し、仲間たちを見渡した。
「新太様の名を汚すような真似だけは、断じてできぬ。我らは、我らの戦をする。たとえ、ここで一人残らず果てることになろうとも!」
「おおっ!」と、兵たちの間から、死を覚悟した者だけが発することのできる、乾いた鬨の声が上がった。
彼らは、捨て駒としての運命を受け入れた。だが、それは無様に死ぬためではない。かつての頭領・新太に恥じぬ、最後の戦いをするためだった。
谷間に吹き込む風が、彼らの掲げた槍の穂先を鳴らした。それは、滅びゆく者たちが奏でる、悲壮な戦いの歌のようであった。