第181節『捨て駒』
第181節『捨て駒』
甲斐へと続く長く厳しい撤退路。その起点となる遠江の陣中で、武田軍の将・馬場信春の胸中は、冬の木枯らしよりも冷たく荒んでいた。歴戦の彼の鎧には、敵の血ではなく、自軍の兵の無念と己の屈辱が重く染み付いているようだった。徳川方の陰湿でえげつない戦法の前に、武田最強と謳われた軍団は翻弄され、武人としての誇りはズタズタに引き裂かれた。
本陣の天幕の中、地図を前にした馬場は、遠江から持ち帰る戦果の乏しさに歯噛みしていた。二俣城は落ちず、徳川の本隊は健在。得たものといえば、数えきれぬほどの屍と、癒えぬ傷だけだ。
(儂としたことが……徳川の背後に潜む、顔も見えぬ策士一人に、これほどまでにかき乱されるとは)
脳裏に浮かぶのは、神出鬼没の遊撃隊と、その背後で糸を引くであろう冷徹な知性。それは、百戦錬磨の彼の自負心を根底から揺るぶる、悪夢のような残像だった。
そこへ、譜代の重臣の一人が進み出た。その顔には、戦の疲労と、それ以上に根深い懸念が刻まれている。
「馬場殿。此度の戦、損害もさることながら、かの北の砦の部隊…いかがしたものかと。頭領である新太が行方知れずとなり、あの部隊はもはや統率を欠いております。我らが甲斐へ引き上げた後、あの者たちだけで国境を守りきれるとは到底思えませぬ」
その言葉に、馬場は顔を上げた。彼の晴らされぬ鬱憤は、御しやすい捌け口を求めていた。
(そうだ……奴らがおる)
彼の脳裏に、かつて新太が率いていた、あの異質な部隊の顔ぶれが浮かんだ。彼らは新太という強力な頭領を失った今、ただ武勇に優れるだけの、統制の難しい厄介な駒でしかなかった。
馬場信春は、この部隊を「厄介払い」と「実利」を兼ねた、完璧な「捨て駒」とすることを決意する。軍議の場で、彼は地図の一点を指し、冷徹に言い放った。
「我ら本隊が甲斐へ退くにあたり、殿は、北の砦の者たちに任せる。徳川の追撃を引きつけ、本隊が完全に離脱するまでの時間を稼がせるのだ。将を失った今こそ、武田の兵としての忠義を示す最後の好機。国境の守り手として、存分に働かせてやろうぞ」
天幕の中が、凍りついた。それは、生還をほとんど期待しない、非情極まりない命令であった。任命された部隊長――新太の腹心であった男は、蒼白な顔で一歩前に出た。
「お待ちくだされ! 我らは国境を守る任を帯びております! それが、なぜ本隊の殿軍などという……!」
「黙れ!」
馬場の一喝が、天幕を震わせた。
「将もわからぬような部隊に、国境の守りが務まるものか。貴様らの忠誠など、誰が信じるものか。それとも、この場で儂の命に背き、一族郎党ことごとく罪人となるか?」
その言葉は、刃よりも冷たく、重かった。部隊長は唇を噛み締め、拳から血が滴るほどに握りしめながら、その場に膝をついた。
「……御意」
その声は、絶望に打ちひしがれた者の、最後の呻きだった。将兵たちは、自分たちが見殺しにされることを悟り、顔を伏せる。武田の軍律に逆らうことは、死よりも重い罪だった。彼らはただ、死地へと向かう準備を始めるしかなかった。
馬場は、その光景を冷ややかに見下ろしていた。彼の心に、罪悪感は微塵もなかった。これは戦だ。そして、不要な駒を盤上から取り除くのは、将として当然の務め。そう、自分に言い聞かせていた。