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第180節『我が軍師よ』

第180節『我が軍師よ』

 その夜、浜松城の評定の間は、これまでにないほどの勝利の熱気に満ちていた。

 戦で汚れた鎧を脱ぎ、酒の酌み交わされる広間は、まるで祝祭のようだった。兵たちの主観では、これは紛れもない「大勝利」。武田軍を撃退したという事実が、先の敗戦の記憶を洗い流し、誰もが昂揚感に酔いしれていた。


 論功行賞の席。家康は、居並ぶ全家臣の前で、自ら立ち上がると、広間の中央に座す源次の前まで歩み寄った。

「……見事であった」

 家康の声は、静かだが、万感の思いが込められていた。

「そなたがいなければ、我らはまた同じ過ちを繰り返し、多くの者を死なせていただろう。武田を無傷で帰さず、手痛い一撃を与えられたのは、そなたの知略の賜物。この徳川家康、そなたに心から感謝する」

 そして、家康は振り返り、全軍に向かって高らかに宣言した。

「皆、よく聞け! 此度の戦、我らは井伊家と『同盟』を結んでいた。だが、儂の心には、正直なところ、彼らを庇護すべき小国と見る侮りがあったやもしれぬ。――しかし、それは間違いであった!」

 家康の声が、広間を震わせる。

「この勝利は、我らだけの力ではない。井伊家の力、そして源次殿の知略があってこそ成し得たものだ! これより、井伊家を単なる同盟相手ではない、我が徳川の浮沈を共に担う『真の盟友』と、儂は認める!」


 その言葉が終わるや、本多忠勝が進み出た。彼は源次の前に立つと、その巨体を折り、槍を持つ節くれだった右の拳を、自らの胸に強く当てた。それは、三河武士が最大の敬意と謝罪を示す際の、古式に則った礼法であった。

「源次殿。俺は、貴殿を侮っていた。武士の戦は槍働きのみと信じ、貴殿の知略を軽んじていた。この本多忠勝、生涯の不明。……許されよ」

 徳川最強の猛将が、その武骨なやり方で、しかし紛れもない誠意をもって頭を下げたのだ。その姿に、他の徳川の武将たちも次々と倣い、あるいは拳を胸に当て、あるいは静かに頭を垂れた。


 源次は、その光景を静かに見つめていた。

(これが、現場の兵士と、大局を知る俺との認識の差か。彼らにとってこれは大勝利。だが俺にとっては、まだ長い戦の序章に過ぎない。……だが、今はそれでいい。この信頼こそが、次の戦を有利に進めるための最大の武器になる)

 彼は立ち上がると、猛将たちに静かに手を差し伸べた。

「お歴々、どうかお顔を。この勝利は、私の知略ではなく、皆様一人ひとりの武勇と覚悟があってこそ。私はただ、皆様の力を最も効果的に振るうための道筋を示したにすぎませぬ」

 その謙虚な言葉と態度に、武将たちはさらに感服した。


 家康は、家臣たちと、静かにそれを受け止める源次を見比べ、満足げに頷いた。そして、彼は最後の言葉を口にした。

(あの男の才は、もはや儂の家臣という器には収まりきらぬ。かといって野に放てば、いずれ我が最大の敵となるやもしれぬ。ならば……)

 家康の脳裏に、唯一の解が浮かぶ。

(この男を御す道は一つ。家臣としてではなく、対等の『友』として遇する。儂を凌ぐその知略に敬意を払い、同じ高みを目指す者として、我が隣に置くのだ!)

 それは、計算された政治的な一手ではなかった。自らの敗北を認め、それを救ってくれた圧倒的な才能に対する、一人の武人としての、最大級の純粋な敬意と決断の表れだった。

 彼は最後にこう付け加えた。その声は、広間の隅々にまで響き渡った。

「そして、これは儂からの最大の賛辞じゃ。――源次殿、そなたはまこと、我が得難き友よ」


 広間が、先ほどとは違う種類のどよめきに包まれた。家臣としてではなく、友として遇する。それは、この時代の主君が家臣にかける言葉としては、ありえないほどに破格の待遇だった。

 譜代の家臣たちは、主君のあまりに真っ直ぐな言葉に驚き、そして嫉妬する暇もなく、その器の大きさに圧倒されるしかなかった。


 源次は、その言葉の裏に計算がないことを瞬時に感じ取り、だからこそ背筋に戦慄を覚えた。

(……まずい。この人は、本気で言っている)

(俺を政治的な駒としてではなく、一個の人間として、対等な『友』として見てしまっている。冷徹な計算なら御しやすい。だが、この純粋な信頼は……重すぎる。そして、何より危険だ。この人を裏切ることが、俺にはできなくなる……!)

 彼は深く頭を垂れた。

(俺は、あんたを利用して、直虎様を守るつもりだったのに。友になど、なってはいけないんだ……!)


 この言葉は、源次を家臣として縛るのではなく、一個の人間として、そして井伊家の代表として最大級の敬意を払うという、家康の強い意志の表れだった。井伊家の地位は、この瞬間、決定的に向上したのだ。

 戦は終わった。だが、源次の中では、本当の戦いがここから始まる。歴史の奔流の中心に立った彼の次なる一手は、もはや遠江一国に留まらない。天下そのものを動かす、巨大な潮となっていくのだった。

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