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第18節『中野直之の警戒』

第18節『中野直之の警戒』

館の広間に、足軽たちのざわめきが届くようになったのは、ここ数日のことであった。

新参者の漁師――源次が率いる訓練が始まってから、兵たちの動きが明らかに変わった。

刀の振りは軽やかに、足並みは乱れず、掛け声は揃って響く。

しかも、不思議なことに怪我人の数は減り、士気はむしろ上がっている。

「……あの源次とかいう男、何やら奇妙な訓練をしているそうです」

近侍の若者が、井伊直虎の前に膝を揃え、控えめに報告した。

直虎は帳面から目を上げる。細く整った眉が、わずかに動いた。

「奇妙、とな?」

「はい。木槍を用いた行列のようなものを繰り返させたり、互いの距離を量りながら進むことを教えているとのこと。

当初は兵どもも戸惑ったようですが……近頃は『あれほど理に適う稽古はない』と評判で。怪我人も減ったそうにございます」

直虎は頬にかすかな笑みを浮かべた。

「ほう……漁師の次は兵の鍛え方か。面白い男よな」

その声色には、ただの興味を超えた響きがあった。

――一方、その報告を耳にして、別の場所で深い皺を刻んだ眉をひそめる者がいた。

中野直之である。

「出自も知れぬ男が、兵の人心まで掌握しようとは……」

重い声で吐き出すように言う直之の眼差しは、険しい。

彼は井伊家の武断派を束ねる実直な武人であり、その忠義は疑いようもない。

だからこそ、得体の知れぬ者が急速に力を持つことを、決して見過ごすことはできなかった。

井伊家は血統と家格を重んずる家である。

槍働きに優れた者はいくらでもいるが、「どこの馬の骨とも知れぬ者」が家中に食い込み、しかも兵を動かし始めるなど、到底許されるものではない。

その不安は、直之の胸を重苦しく締め付けていた。

――数日後。

訓練場に、重い靴音が響いた。

木槍を振るう足軽たちのかけ声が、突如として止む。

振り返った先には、鎧直垂を纏い、冷たい眼光を放つ中野直之が立っていた。

背後には数人の家臣を従えている。

彼の登場だけで、場の空気は一瞬にして張り詰めた。

源次は、木槍を持つ兵たちの前に立ち、動きを制していた。

その視線が直之を捕らえる。

「続けよ」

源次の低い声が響いた。

命を受けた兵たちは、緊張しながらも再び動き始める。

歩調を揃え、槍を構え、列を崩さず進む。

一見すれば無骨な足軽の群れが、源次の号令で不思議な一体感を持って動き出すさまは、まるで一つの生き物のようであった。

だが、それを目にした直之の胸中に湧き上がったのは感嘆ではない。

不快と不安である。

「……異様だ」

誰に聞かせるでもなく呟く。

足軽とは、個々に荒々しい存在である。秩序は指揮する武士が与えるものであり、足軽ごときが自ら律するものではない。

その常識を覆すような光景が、直之の目には「不気味」と映った。

やがて稽古が一区切りし、兵たちが息を整えたとき、直之はゆっくりと源次に歩み寄った。

「貴様」

鋭い声に、空気が震える。

源次は静かに顔を上げた。

直之の視線が、源次を射抜く。威圧的な気迫が全身を包む。

「何者だ。……その知恵、どこで身につけた」

その問いには、ただの好奇心はなかった。

詰問し、抑え込み、正体を暴こうとする色が色濃く滲んでいた。

源次はわずかに息を吸い、崩れることなく答える。

「浜名湖の漁師にございます。生きるため、色々と考えただけでございます」

その声は平静で、揺らぎがない。

直之の眉間にさらに皺が刻まれる。

「……」

漁師風情が、この場に立ち、堂々とした眼を返す。

怯えも屈服もなく、まるで己の正しさを疑わぬ眼。

――この目はただの漁師のものではない。

直之は心の底でそう断じた。

そこに映るのは、生死を踏み越えた者だけが持つ、底知れぬ光。

しばし睨み合い、沈黙が流れる。

やがて直之は鼻を鳴らし、背を向けた。

「……続けよ」

短い言葉を残し、訓練場を去っていった。

残された兵たちは張り詰めたまま、源次は静かに息を吐いた。

その日の夕刻。

井伊谷城の奥にある座敷で、直之は正座して直虎に進み出た。

畳に額を近づけるほど深く頭を下げ、低く重い声で告げる。

「姫様。あの源次という男、あまり信を置きすぎるのは危険かと存じます。……得体が知れませぬ」

直虎は扇を閉じ、静かに見下ろした。

直之の声音には、私心の影はない。

純粋に井伊家を案じる忠義からの進言であることは明らかであった。

「申してみよ」

促され、直之は続ける。

「兵どもがあの男に心酔し始めております。

やり方は、井伊家が代々培ってきた兵のあり方を軽んじるもの。

いずれ和を乱すやもしれませぬ。……何より、あの男の目。あれは、ただの漁師の目ではござらん。間者や調略の徒であるやもしれませぬ」

言葉の一つひとつに、警戒と憂慮がにじむ。

直虎はしばし沈黙した。

やがて細い指で扇を軽く打ち、口を開いた。

「……なるほど。直之の忠心、確かに受け止めた」

その声音は穏やかであったが、真意は読み取れぬ。

「だが、いまはしばし、様子を見る。……面白き男よ、あやつは」

直之は唇を結んだ。

己の言葉が退けられたのではない。

ただ、姫は別の道を選んだ。

それを理解したがゆえに、胸中の不安はますます重くなる。

こうして井伊家の中に、源次をめぐる最初の明確な対立の影が落ちたのであった。

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