第179節『勝利の鬨』
第179節『勝利の鬨』
夕暮れ時、武田軍の最後尾が遠州の山々に消えていったのを見届けると、連合軍の陣地に、地鳴りのような歓声が上がった。
「勝ったぞ!」「武田を退けた!」「二俣城は救われた!」
兵たちは抱き合い、涙を流し、天に向かって槍を突き上げた。彼らにとっては、あの恐るべき武田軍が背を向けて逃げていったという事実こそが、紛れもない「勝利」だった。二俣城からも、生き残った城兵たちが城壁に立ち、力強い歓声を送っていた。
だが、丘の上に立つ源次は、その熱狂の渦から一歩引いていた。
(勝った、か……。まあ、局地的にはな。でもデカい目で見りゃ、これは勝利じゃない。史実通り、武田が冬を前に兵を引いただけだ。俺がやったのは、その撤退の過程で奴らに手痛いダメージを与えて、こっちの被害をゼロに近づけたってだけのこと)
彼の目は、歓声に沸く兵たちではなく、武田軍が消えていった北の空を睨んでいた。
(結局、来年になれば信玄の本隊が来る。ラスボスはまだ健在だ。三方ヶ原の悲劇っていう最大のイベントは、まだ避けられていない。これは勝利じゃなくて、処刑までの執行猶予が延びたに過ぎないんだよな……)
それでも、兵たちの歓声を聞き、生き残った仲間たちの笑顔を見ていると、胸の奥に温かいものが込み上げてくる。
「源次殿!」
泥と血にまみれた中野直之が、馬を下りて駆け寄ってきた。その武骨な顔は、普段の険しさが嘘のように、感極まった表情で歪んでいた。
(うわ、直之さん、ガチ泣きじゃん……)
彼は討ち取った武田の将の首を地に置くと、源次の肩を強く掴んだ。
「……見たか。これこそが、我ら井伊の戦じゃ」
その声は震えていた。彼の脳裏には、主君・直盛を守りきれず、多くの同胞を失った、あの桶狭間の無念の記憶が蘇っていた。
「あの桶狭間で、先代様も、我が友も……皆、犬死にも同然であった。守るべきものを何一つ守れず、ただ死んでいった。だが、今日は違う。我らは勝ち、そして生き残った。仲間を、一人でも多く生かして帰れるのだ。……源次殿、あなたのおかげで、我らはようやく……井伊の武士としての誇りを、取り戻せたのかもしれん」
彼の目には、涙が光っていた。
源次は、その真っ直ぐな言葉に、思わず目を伏せた。
(いや、違うんだよ直之さん。あんた達を救ったとか、そういう綺麗な話じゃない。俺はただ、もっと大きな地獄への道連れにしてるだけなのかもしれない……。でも、まあ……ここで水を差すのも野暮か)
だが、そんな内心を口にすることはできない。
「……皆様の奮戦の賜物です」
そう言って、彼の肩を掴む手に、そっと自らの手を重ねるしかなかった。
兵たちの視線が、自然と丘の上に立つ源次へと集まった。彼らは、この戦を勝利に導いた神のごとき軍師として、畏敬の念を込めて見上げていた。
(それにしても、だ)
源次の思考は、再び冷静な分析へと戻っていた。
(本多忠勝の突進力、榊原康政の指揮の的確さ……マジでヤバかったな。これが史実で『徳川四天王』と呼ばれる男たちの実力か。書物で読むのとはワケが違う。そして、それとは全く質の違う破壊力を持つ新太。あいつは規格外だ。彼らの力が最大限に発揮される盤面さえ俺が用意すれば、あの武田軍相手にだってこれだけのことができる。……この戦力、絶対に手放すわけにはいかない)
歓声に包まれながら、源次は一人、孤独な決意を固めていた。
(この猶予期間が重要だ。この時間で、俺は次の手を打つ。必ず、三方ヶ原の悲劇の未来を変えてみせる。直虎様と、この井伊谷を、そして今ここで涙を流しているこの男の想いを守るために)
戦は終わったが、彼の本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。