第178節『道を開けよ』
第178節『道を開けよ』
武田軍の陣地に撤退の法螺貝が鳴り響くと、連合軍の陣地は、一瞬の静寂の後、爆発的な歓声に包まれた。
「敵が退いていくぞ!」「我らの勝ちだ!」
武将たちは色めき立ち、兜の緒を締め直す。
「好機ぞ! 敵は背を見せている! 今こそ追撃し、馬場信春の首を挙げる時!」
本多忠勝が蜻蛉切を手に、今にも駆け出さんばかりの勢いだ。先の戦で敵を蹂躙したものの、敵の大将を取り逃がしたことへの武人としての渇望が、彼の全身から立ち昇っていた。
その熱狂を、源次の冷静な一言が制した。
「お待ちください! 全軍での深追いはなりませぬ」
「なぜだ、源次殿! 敵は敗走しておるのだぞ!」
忠勝の問いに、源次は静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで答えた。
「だからこそです。手負いの獣は、最も危険な牙を剥きます。馬場信春ほどの将が、無防備に背を見せるはずがない。必ずや、退路には巧妙な殿部隊を配置しているはず。全軍で深追いすれば、逆に手痛い反撃を受けましょう」
その言葉を聞きながら、家康は固く拳を握りしめていた。
(追いたい……! 儂の武人としての血が、今すぐ追えと叫んでおる! ここで馬場の首を挙げれば、先の敗戦の屈辱を完全に雪ぐことができる……!)
その激情が、彼の全身を焼き尽くさんばかりに燃え盛る。だが、それと同時に、全く別の冷徹な好奇心が、彼の心を支配していた。
(しかし……あの男は、この先の潮目まで読んでいるやもしれぬ。この戦、儂はあやつの描いた盤上で踊らされたに過ぎぬ。ならば、最後までその盤上を見届けてみたい。この男が、この戦をいかにして『終わらせる』のか。その結末を、この目で確かめたい……!)
激情に身を任せることよりも、未知の知略の結末を見届けたいという知的好奇心が、わずかに上回った。家康は深く息を吸い込み、自らの衝動をねじ伏せた。
「……源次殿の言う通りだ。全軍での追撃は禁ずる」
主君の厳命に、忠勝らは悔しげに槍を下ろした。だが、源次は言葉を続けた。その瞳には、冷徹な光が宿っていた。
「されど、このままみすみす逃がすもまた愚策。敵に『我らはいつでも貴殿らの首を掻き切れる』という恐怖を、骨の髄まで刻み込んでやらねばなりませぬ」
源次は地図の一点を指し、傍らに控える新太へと鋭い視線を送った。
(さて、ここからが汚れ仕事の時間だ。徳川の脳筋連中に手柄を渡す気はないし、そもそもこの陰湿な作戦を理解して実行できるのは、あいつしかいない)
彼は、他の武将たちに聞こえぬよう、新太にだけ声をかけた。
「新太。最後の仕上げを、お前に頼みたい」
「……ふん。どうせまた、武士のやることじゃねえ、って仕事だろ」
新太は肩をすくめ、槍を担ぎ直した。だが、その口元には不敵な笑みが浮かんでいる。「まあ、いいだろう。あんたの描く絵図の、最後の筆を汚すのは俺の役目らしいからな」
源次は頷いた。
「ああ、頼む。正面から追うのではない。山道を知り尽くしたあなた達なら、奴らの退路に先回りできるはずだ。執拗にな。だが、絶対に深入りはするな。奴らに一息つく暇も与えず、甲斐まで悪夢を見せ続けてやってくれ」
「承知した」
新太は短く応えると、獣のような笑みを浮かべ、部隊と共に再び闇に紛れるように動き出す。
その後の数日間、武田軍の撤退路は地獄と化した。
井伊の遊撃隊は、まさに神出鬼没だった。峠道で待ち伏せて矢を放ち、川を渡る部隊の背後から鬨の声を上げ、兵たちが眠りにつこうとすれば、陣のすぐ近くで太鼓を打ち鳴らす。武田の殿軍は、疲労と絶え間ない恐怖で神経をすり減らし、甲斐にたどり着く頃には半数近くが脱落していた。
「忌々しい……あの鼠どもめ……!」
甲斐への帰路、馬上で揺られながら、馬場信春は何度も歯噛みした。正面決戦での敗北以上に、この執拗な追撃が彼の誇りを深く傷つけていた。
(このままでは、主に合わせる顔がない……。この借りは、必ず返さねばならぬ)
彼の胸中には、徳川家康と、その背後で糸を引く顔も見えぬ何者かに対する、燃えるような憎悪が渦巻いていた。
連合軍は、源次の指示通り、本隊での深追いはしなかった。この時代の合戦において、追撃戦はしばしば最も多くの犠牲を出す危険な賭けであったが、源次はそれを承知の上で、最も安全かつ効果的な「心理的追撃」を選択したのだ。
丘の上から遠ざかる武田軍を見送りながら、源次は静かに呟いた。
(完璧だ。これで馬場は、徳川を徹底的に憎むだろう。その個人的な憎悪が、いずれ武田家中の歪みを生む。来たるべき本番、三方ヶ原の戦いにおいて、その歪みこそが俺たちの最大の武器になる。……それにしても、俺も性格悪くなったもんだな。人の憎悪まで利用するなんて。これも全部、直虎様が平和に暮らせる未来のためだ。……たぶん)
彼の視線は、もはや目の前の勝利ではなく、その先にあるさらに大きな戦いを見据えていた。