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第177節『決断』

第177節『決断』

 祝田の谷から数里離れた武田本陣。そこに、地獄から生還した数名の敗残兵が転がり込んできた。彼らの鎧は泥と血にまみれ、顔は恐怖に歪み、言葉は支離滅裂だった。

「わ、罠に……我らは罠にはめられました!」

「伏兵が……四方から……そして、崖の上からは人ならざるものが……!」

「谷に入った途端……我らの隊は……壊滅……」


 馬場信春は、その報告を聞きながら、地図の上に置いた駒を、震える手で払いのけた。駒が音を立てて床に散らばる。

「……完敗だ」

 彼の口から漏れたのは、それだけだった。

 百戦錬磨の将の脳裏には、あの顔も見えぬ不気味な敵の影が浮かんでいた。自らが最も得意とする誘い込みの策を、さらに大きな策で包み込まれ、完璧に返された。兵力も、練度も、全てで上回っていたはずの自軍が、その知略の前に、赤子の手をひねるように壊滅させられたのだ。これ以上の戦闘は、ただ無駄に兵を失うだけだ。


 さらに、彼の決断を後押しするもう一つの現実があった。北の山々から吹き下ろす風は、もはや秋のものではない。肌を刺すような冷気と湿り気を含み、冬の匂いを運んできていた。

(……潮時か)

 長年の戦働きで培われた勘が、瞬時に告げていた。これ以上の遠江での滞陣は、補給路が雪で閉ざされ、全軍がこの地で干上がる危険を意味する。此度の侵攻は、あくまで来たるべき本番――西上作戦の地ならしに過ぎぬ。ここで全力を失うは本末転倒。

(この屈辱は飲み込むしかない。だが、来年、本隊がこの地を踏む時こそが、奴らの最期よ。覚えておれ、顔も見えぬ敵よ……)


「……退け」

 馬場信春の声は、かすれていた。

「全軍、甲斐へ退く。二俣城の包囲を解き、ただちに撤退を開始せよ」

 その言葉に、居並ぶ将たちは息を呑んだ。

「しかし、殿! このままでは武田の武名が……!」

「黙れ!」

 馬場の一喝が、天幕を震わせた。

「武名を惜しんで雪に埋もれるが武士か! 生き残り、来年の戦に備えることこそが真の武士道ぞ! 主君に合わせる顔がないのは、この儂一人で十分じゃ!」

 その声は、生涯で初めて味わうであろう、完全な敗北を認める者の、悲痛な叫びだった。将たちは、主君の覚悟を前に、もはや何も言えなかった。

 武田軍の陣に、静かに、そして重々しく撤退の法螺貝が鳴り響いた。その音は、冬の到来を告げる木枯らしのように、遠江の山々に寂しく響き渡った。

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