第176節『新太の咆哮』
第176節『新太の咆哮』
谷底は、鉄と血と泥が混じり合った地獄と化していた。
武田の兵たちは、前後左右、そして頭上からの攻撃に晒され、完全にパニックに陥っていた。指揮官は次々と討ち取られ、誰の命令を聞けばいいのかも分からない。ある者は槍を捨てて逃げ惑い、ある者は恐怖のあまりその場に座り込んで泣き叫んでいた。
その混乱の只中を、一体の鬼神が駆け抜けていた。新太である。
「うおおおおおおっ!」
彼の咆哮は、もはや人の声ではなかった。それは、自らを駒として使い捨てようとした武田への怒り、友である源次への信頼、そして己の武の全てを解放する、魂の叫びだった。
彼の槍、その穂先は敵兵の喉を正確に貫き、石突は兜を叩き割り、柄は薙ぎ払うだけで人馬をまとめて吹き飛ばす。彼の進む道には、屍の道だけができていった。
元武田兵である彼は、敵の陣形、兵の癖、指揮官の思考パターンを全て読み切っていた。敵が右に動けば左を突き、退こうとすれば先回りして退路を断つ。その動きは予測不能で、武田の兵たちには、彼が一人ではなく、まるで数十人の亡霊となって襲いかかってくるように見えた。
「化け物だ……」「止めろ! 止められるか、あんなもの!」
武田の兵たちの間に、純粋な恐怖が広がる。
だが、その中で数人だけが、その槍筋に見覚えがあった。かつて北の砦で、共に訓練に明け暮れた者たち。新太と共に井伊に降った部隊とは別の、砦に残っていた兵たちだった。
「ま、まさか……あの槍は……」「嘘だろ……なぜ、あの人がここに……」
彼らの声は、他の兵たちの絶叫にかき消された。だが、その瞳に浮かんだ絶望的なまでの動揺は、確かに部隊の末端から統率を乱す小さな亀裂となっていた。かつての仲間が、今や最も恐るべき敵として牙を剥いている。その事実は、彼らの心を根底から破壊した。
一方、谷の入口では中野直之が、出口では本多忠勝が、それぞれ鉄壁の陣を敷き、逃げ惑う兵たちを容赦なく討ち取っていく。
「井伊の武勇、見せてくれるわ!」「三河武士の底力、思い知れ!」
二人の猛将は、これまでの鬱憤を晴らすかのように奮戦し、武田の兵たちはなすすべもなかった。
丘の上からその全てを見下ろしていた源次は、軍配を固く握りしめていた。
(新太……お前の怒り、悲しみ、その全てを今、ここで解放しろ。そして、過去の亡霊を断ち切り、井伊の将として生まれ変わるんだ)
軍師の目は、ただ冷徹に戦況を分析するだけではなかった。友の魂の解放を、静かに見守っていた。
(それにしても、強すぎだろ、あいつ……。マジで一人だけゲームのジャンルが違う。俺の知識とあいつの武勇が合わされば、本当にどんな敵にも勝てるんじゃないか……? いやいや、目的を間違えるな。俺がやりたいのは、天下取りじゃない。**ただ、直虎様が安心して笑って暮らせる世の中を作ること。**そのために、俺たちは戦っているんだ)
興奮と冷静さの間で、彼の心は揺れ動いていた。
戦いはもはや、一方的な殲滅戦へと変わっていた。武田軍の誇り高き兵たちは、もはやその見る影もなかった。生き残った者たちは武器を捨て、地に膝をつき、ただ命乞いをするだけだった。
谷間には、血の川が流れ、折れた槍と旗が散乱していた。
戦は、終わった。