第175節『家康の自制』
第175節『家康の自制』
完璧な包囲網が完成した。
谷底で繰り広げられる一方的な蹂躙を目の当たりにし、徳川の武将たちは功を焦り、我先にと突出しかけた。先の敗戦の雪辱を果たす絶好の好機に、誰もが血気にはやっていた。
「今こそ武田の主力を叩き、将の首級を挙げる好機! 全軍, 突撃!」
大久保忠世が叫び、手勢が動き出そうとした。その熱狂を、雷鳴のような一喝が断ち切った。
「待てぇい!!」
声の主は、本陣にいるはずの徳川家康だった。彼は馬を駆り、いつの間にか最前線近くまで進み出ていた。その瞳には、もはや激情の色はない。あるのは、この異常な戦況を目の当たりにした将としての、困惑と警戒だけだった。
「早まるな! 突出するは愚策ぞ! 敵は袋の鼠、焦るでない! 全軍、源次殿の策に従い、陣形を崩すな!」
家康の心の奥底では、武田への憎悪と、自らの手で敵将を討ち取りたいという武人としての衝動が、未だ激しく燻り続けていた。
(今だ……今こそ突撃すれば、馬場信春の首も夢ではない……!)
その衝動が、喉元までせり上がってくる。だが、彼の脳裏に焼き付いていたのは、先の敗戦で死んでいった家臣たちの顔だった。あの時も、同じように激情に任せて突撃し、全てを失った。
(……儂には読めぬ。この戦の流れは、儂の知る戦の理を超えておる)
彼は、自らの衝動的な判断が、この緻密に張り巡らされた策を台無しにしかねないことを、本能的に悟ったのだ。
(今は……今は耐える時だ。あの男の言う通りに動くしかない。この戦の潮目は、儂ではなく、あの男が握っておるのだからな!)
その姿に、本多忠勝も大久保忠世も、はっと我に返り、主君の厳命に静かに従った。軍全体の統率は、かろうじて保たれた。
その様子を、丘の上の源次は静かに見つめていた。
(……危なかった。ギリギリで踏みとどまってくれたか、家康。だが、あの目はまだ死んでいない。武人としての血が、まだ滾っている。今回は俺の策の異様さに気圧されて従っただけだ。もし相手が馬場信春ではなく、信玄本人だったら……? きっと、あんたはまた同じ過ちを繰り返すだろうな)
源次の胸に、家康という男の拭いきれぬ危うさに対する深い懸念が刻まれた。
(こいつが本当の意味で天下人になるには、まだ『何か』が足りない。……やはり、三方ヶ原のあの大敗北を経験しなきゃ、ダメなのかもしれんな)
それでも、今は目の前の勝利を確実にするのが先決だ。
源次は傍らの伝令に短く命じた。
「新太隊に伝えよ!『雑兵は相手にするな。敵の指揮官のみを狙え』と!」
その伝令を受け、崖から駆け下りた新太は、単騎で敵陣の只中へと突っ込む。彼の狙いは、もはや雑兵ではなかった。混乱する軍勢の中、必死に兵をまとめようと声を張り上げている指揮官の旗印。ただその一点だけを目指し、人馬の波を切り裂いていく。
「化け物だ……」「止めろ! あいつを隊長に近づけるな!」
武田の兵たちが壁となって立ちはだかるが、新太の槍はそれを紙のように突き破る。
彼の槍は、まるで意志を持っているかのように敵の指揮官だけを狙い、鎧の隙間を的確に貫いていく。一人、また一人と将が討ち取られるたびに、武田の軍の組織的な抵抗は急速に失われていった。
指揮系統を完全に失った武田の部隊は、もはや統制の取れた軍ではなく、谷間でただ蹂躙されるだけの肉塊と化していた。
その頃、二俣城からも、最後の力を振り絞った城兵たちが打って出て、包囲網はさらに狭まっていく。
戦は、最終局面を迎えていた。