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第174節『伏兵、動く』

第174節『伏兵、動く』

 法螺貝の音を合図に、戦場の風景は一変した。

 まず、谷の入口。武田軍が通り過ぎたはずの森が、突如として牙を剥いた。木々の間から、中野直之率いる井伊の部隊が姿を現し、退路を断つように鉄砲と弓の矢を雨のように降らせたのだ。


「伏兵か! いつの間に!」「退路が断たれたぞ! 戻れ、戻るんだ!」

 武田の後続部隊は不意を突かれ、完全にパニックに陥った。前方の谷間からは敗走してくる味方が押し寄せ、背後からは矢の雨が降り注ぐ。前進も後退もできず、狭い道で人馬が折り重なるように混乱していく。中野直之の部隊は、その混乱した塊に向かって容赦なく第二、第三の矢を放ち、退路を完全に塞ぐ分厚い「蓋」となった。

「井伊の武勇、見せてくれるわ! 谷の鼠を、一匹たりとも逃すな!」

 中野の咆哮が、戦場に響き渡った。


 次に動いたのは、谷の出口だった。

 敗走していたはずの徳川の「餌」部隊が、突如として足を止め、反転した。彼らの背後、丘の稜線から姿を現したのは、鹿角の兜を戴いた巨漢――本多忠勝とその精鋭たちだった。

「ここまで来れば十分よ! 奴らを一人たりとも谷から出すな!」

 忠勝の蜻蛉切が唸りを上げ、勢い余って追撃してきた武田の先鋒を、まるで薙刀で草を刈るように薙ぎ払っていく。その圧倒的な武の前に、武田の兵たちは恐怖に足を止め、後退しようとする。だが、背後からは味方が押し寄せてくるため、身動きが取れない。彼らは、徳川最強の「壁」の前に、ただ押し潰されるだけの肉塊と化した。


 だが、武田軍にとっての真の地獄は、谷の最奥、天を仰ぐしかない崖の上から始まった。

「うおおおおおおおおっ!」

 獣の咆哮と共に、崖の上から新太が躍り出た。彼の背後から、同じく山中に潜んでいた井伊の遊撃隊が一斉に姿を現し、眼下で密集する武田軍本隊めがけて、巨大な丸太や岩石を次々と転がり落とした。それは、源次が事前に山中の木を切り倒し、岩を積み上げて準備させておいた、原始的だが最も効果的な「山殺し」の罠だった。

 轟音と共に人馬が砕け、武田軍の指揮系統は完全に分断される。

「なっ……背後からもか!?」「囲まれた! 我らは罠にはめられたのだ!」

 武田の兵たちは、自分たちが狩人ではなく、完全に罠にかかった獲物であったことを、絶望の中で悟った。谷の入口は井伊の弓鉄砲隊に塞がれ、出口は徳川の猛将が阻む。そして頭上からは、鬼神率いる遊撃隊が死の雨を降らせる。前後左右、そして天。全ての逃げ場を失い、谷間は断末魔の叫びと血の匂いが満ちる、阿鼻叫喚の地獄と化した。


 丘の上からその全てを見下ろしていた源次は、軍配を固く握りしめていた。

(よし……罠は完璧に発動した。中野殿の『蓋』も、忠勝殿の『壁』も、そして新太の『槌』も、俺の策の意図を完全に理解し、最高の働きをしてくれている……!)

(……これは、まるで……)

 彼の脳裏に、かつて読み耽った軍記物の一節が浮かび上がっていた。中国地方の覇者・毛利元就が、数倍の敵を打ち破った『厳島の戦い』。不利な地形にあえて敵を誘い込み、三方から完全に包囲して殲滅した、日本戦史における最も完璧な包囲殲滅戦。

(書物の中の戦術が、小規模ながら、今、目の前で現実になっている……!)

 彼の胸に、軍師としての確かな手応えと、仲間への熱い信頼が込み上げる。

(だが、まだだ。本当の勝負はここからだ。この混乱の中で、武田がどう動くか。そして、味方の将、特に家康が、この有利な状況で功を焦って突出しないか。それを見極めるまでは、決して気は抜けない)

 源次の目は、目の前の勝利に浮かれることなく、さらにその先の戦局を見据えていた。戦場の主導権は、完全にこちらの手に渡った。だが、本当の決着はまだついていなかった。

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