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第173節『偽りの敗走』

第173節『偽りの敗走』

 夜明け前の遠州平野は、冷たい霧に沈んでいた。

 草木は夜露に濡れ、土は湿り気を帯びて黒い。遠くに見える二俣城のシルエットも、霧の中にぼんやりと霞んでいる。その静寂を破ったのは、徳川軍の陣から放たれた、一本の鏑矢だった。

 ヒュルルルル―――ッ!

 甲高い音を響かせながら空を切り裂いた矢は、開戦の合図。だがそれは、勝利を目指す鬨の声ではなく、死地へと赴く者たちの覚悟を告げる、悲壮な響きを帯びていた。


「行けぇ! 続けぇ!」

 隊長を務める若武者の、裏返った叫び声が響く。

 源次から「餌」としての役目を託された数十騎が、まるで統制を失ったかのように二俣城へ向かって無謀な突撃を開始した。

 彼らの脳裏には、昨夜の源次の言葉が焼き付いている。

 ――『お前たちの無様な逃げっぷりこそが、この戦の勝敗を決するのだ』

 (無様な逃げっぷり、か……。武士として、これ以上の屈辱はない。だが……源次殿は、我らを信じて託してくださった。この役目を果たし、生きて帰ってこそ、真の誉れ!)

 隊長の瞳には、恐怖と、それを上回る使命感が燃えていた。


 その無謀な突撃は、当然、武田軍の思う壺だった。

 丘陵の木々の間から、采配を振るう武田の将――馬場信春が舌なめずりをするのが見えた。

「掛かったな、愚か者めが! 徳川の若造、また同じ轍を踏むか!」

 両翼に潜んでいた武田の精鋭たちが、鬨の声を上げて一斉に姿を現した。鶴が翼を広げるように、徳川の突出部隊を包み込もうとする。


 その瞬間を、徳川の若武者たちは待っていた。

「今だ! 退けぇ! 全員、散れぇ!」

 隊長の叫びを合図に、彼らは源次の命令通り、敵が姿を現した瞬間に一斉に踵を返した。それはもはや敗走ですらない。蜘蛛の子を散らすように、てんでんばらばらの方向へ、ただがむしゃらに逃げ出したのだ。槍を捨て、旗を倒し、泥にまみれて転げながら逃げるその姿は、まさしく烏合の衆。

 その完璧なまでの無様さに、武田の追撃隊は勝利を確信した。

「追え! 徳川の若造の首、今こそ挙げる時ぞ! 一人たりとも逃がすな!」

 馬場信春は、後方の丘の上から采配を振るい、本隊の主力を谷へと進ませた。彼の脳裏には、先のゲリラ戦への苛立ちと、目前の勝利への確信が渦巻いていたが、それでも百戦錬磨の将としての慎重さは失っていなかった。彼は自らは谷には入らず、後続部隊と共に退路を確保しつつ、全体の指揮を執っていた。

 武田本隊の主力は、伏兵として潜んでいた鬱憤を晴らすかのように、我先にと敗走する部隊を追って、両側を小高い丘に挟まれた狭い谷間――祝田の谷――へと、何の疑いもなく雪崩れ込んでいった。


 武田の主力部隊の最後尾が、完全に谷間に吸い込まれた。

 その瞬間を、後方の丘の上から軍配を手に見届けていた源次は、静かに、しかし全身の血が沸騰するのを感じていた。

「……喰いついたな」


 彼の隣で、榊原康政が戦場から目を逸らさずに、低い声で呟いた。

「……これが、貴殿の描いた絵図か」

 その声は、非難ではなかった。むしろ、畏怖に近い響きを帯びていた。軍議で地図を前に語られた非情な策が、今、目の前で寸分違わぬ現実となっている。味方が血を流し、無様に逃げ惑う姿。それを冷静に見下ろし、駒として動かす男が隣にいる。歴戦の将である康政ですら、背筋に冷たいものが走るのを禁じ得なかった。

「頭では理解していたつもりだったが……これほどとはな。貴殿の目には、味方ですら、盤上の駒にしか見えておらぬのか」


 その言葉は、源次の耳にも鋭く突き刺さった。

(盤上の駒……か)

 源次は内心でその言葉を反芻した。

(違う。彼らは駒じゃない。英雄だ。そう言い聞かせているはずなのに……なぜだ? あの者たちが斬られていくのを見ても、俺の心は驚くほど凪いでいる。悲しみよりも先に、『よし、計画通りだ』という冷たい満足感が湧き上がってくる。俺はいつから、こんな……)

 彼は、己の中に芽生えつつある軍師としての非情な一面に、自分自身でも驚き、そして微かな恐怖を覚えていた。

(これが……戦場で人を動かすということなのか)

 その気づきは、彼をさらに孤独にした。


「駒ではありません」

 源次は、己の内心の動揺を押し殺し、静かに訂正した。「彼らは、勝利のために最も重要な役割を果たした、英雄です。そして、これから我らが動かねば、彼らは本当にただの駒として使い潰されることになる」

(そうだ。俺がやるしかないんだ。俺がこの地獄の指揮を執り、一人でも多く生きて帰らせる。感傷に浸っている暇はない!)

 心の迷いを振り払うように、彼は天高く法螺貝を掲げた。


 この戦場で二度目となる、しかし意味合いの全く違う音が、天を裂く。

 ブオオオオオオオオッ―――!

 それは、狩られる側から狩る側へと転じる、反撃の狼煙だった。

 その音を合図に、まず谷の入口が牙を剥いた。武田軍が通り過ぎたはずの森から、中野直之率いる井伊の部隊が姿を現し、退路を断つように鉄砲と弓の雨を降らせたのだ。

「伏兵か! いつの間に!」「退路が断たたれたぞ!」

 武田の後続部隊は不意を突かれ、前進も後退もできずに混乱に陥る。

「井伊の武勇、見せてくれるわ! 谷の鼠を、一匹たりとも逃すな!」

 中野の咆哮が、戦場に響き渡った。

 罠は、発動した。

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