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第172節『誘い込み』

第172節『誘い込み』

 源次の放った「勝つための敗走」という言葉が、天幕の中に重く響いていた。

 徳川の武将たちは、その言葉の意味をすぐには理解できず、ただ困惑と不信に満ちた表情で顔を見合わせる。

「……源次殿。それは、一体どういう意味か」

 最初に口を開いたのは、榊原康政だった。彼の理知的な瞳が、源次の真意を探ろうと鋭く光る。


「言葉の通りです」と源次は静かに答えた。「計画通り、我らの中からあえて無謀な突撃を行い、そして無様に敗走する『餌』となる部隊を選びます。その部隊が武田の伏兵をおびき寄せている間に、我ら本隊がその伏兵のさらに背後を突く。狩人を、さらに大きな狩人が狩るのです」


「計画通り、だと……?」大久保忠世が、信じられぬという顔で呻いた。「これほど仲間が危機に瀕しているというのに、それでも我らは『負けるフリをしろ』と申すか!」

 その声には、怒りよりもむしろ戦慄の色が浮かんでいた。作戦の概要は理解していた。だが、血染めの伝令を目の当たりにした今、仲間を「餌」にするというその非情さを、改めて突きつけられたのだ。


「非情な策。されど、これしか道はありませぬ」

 源次はきっぱりと答えた。その瞳には、一片の揺らぎも同情もなかった。

(分かってる。人の心がないと言われることも。だが、ここで数百の兵を犠牲にするか、あるいは餌となる数十の兵の命を賭けて数千の兵を救うか。軍師として選ぶべき答えは、一つしかない)

(……とはいえ、口で言うのは簡単だけど、マジでやるのか、俺。味方を駒として死地に送るとか、普通に考えて鬼畜の所業だろ……。怖えよ、正直……。でも、やるしかないんだ。ここでやらなきゃ、全員死ぬ。直虎様を守れない……!)


「その餌となる部隊は、誰が率いるのだ」

 本多忠勝が、地を這うような低い声で問うた。その問いに、天幕にいる全員の視線が集中する。最も危険で、最も生還率の低い役目。それを誰に命じるのか。

 源次は、その問いを待っていたかのように、ゆっくりと顔を上げた。そして、徳川家中でも特に血気盛んで、先の敗戦の雪辱に最も燃えている若武者たちの顔を一人ひとり見つめながら言った。

「……この役目は、徳川家中でも屈指の勇猛さを誇る者たちにしか務まりません。敵を欺き、死地から生還するには、ただの臆病者では務まらない。鋼の胆力と、獣のごとき俊敏さが必要となります」

 そして、彼はその若武者たちに向かって、深く頭を下げた。

「どうか、皆様のお力をお貸しいただきたい。この戦で最も重要な役割を、そして最も誉れ高き役目を、皆様に託したいのです」


 天幕の中が、どよめいた。

 侮辱されると思っていた若武者たちは、逆に最も重要な役目を託され、その誇りを認められたことに、顔を紅潮させた。

「源次殿……!」「我らに、それほどの大役を……」

 源次は、彼らの心理を巧みに突いたのだ。ただ「餌になれ」と命じるのではなく、「お前たちでなければ務まらない英雄の役目だ」と持ち上げることで、彼らの誇りを満たし、死地へ向かう覚悟を固めさせた。

(すまない……。俺は、あんたたちの命を賭けの駒にする。だが、これしか……これしか直虎様を守る道がないんだ)

 内心の罪悪感を押し殺し、源次は軍師としての仮面を被り続ける。


 家康は、その一部始終を黙って見つめていた。

(……恐ろしい男よ。人の心の機微を読み、誉れという名の鎖で若者たちを死地へと向かわせるか)

 彼は、源次の策の非情さと、その裏にある合理性を理解し、戦慄していた。

 家康は、固く閉ざしていた目を開いた。彼は宣言も命令もしなかった。ただ、静かに立ち上がると、自らの側に控えていた本多忠勝を呼び寄せた。

「平八郎」

「はっ」

 家康は、居並ぶ徳川の家臣たちを見渡し、そして最後に源次へと視線を向けた。その眼差しは、覚悟を決めた将のそれだった。

「これより、我が徳川の兵の一部を、源次殿の『駒』として預ける」


 その声は低く、天幕の中の全ての音を吸い込んだ。

 本多忠勝が、信じられぬという顔で主君を見返した。「殿……それは、我が徳川の兵を、井伊の将の指揮下に置くと仰せか!」

 それは、徳川家の誇りを預かる筆頭猛将として、到底受け入れがたい命令だった。

 家康は頷いた。

「そうだ。源次殿の策、その成否は『餌』となる部隊の動き一つにかかっておる。ならば、その餌の動きを最もよく知る者が、伏兵を率いるのが理に適っておる」

 家康は源次へと向き直った。

「源次殿。我が徳川の兵を、そなたの思うままに動かしてみせよ。そなたの潮読みが真であると、この戦場で証明してみせよ」


 それは、この時代の常識を覆す、前代未聞の決断だった。策の最終的な責任は、それを採用した総大将が負うのが鉄則。つまり、この策が成功すればその功は源次と井伊家、ひいては連合軍全体のものとなるが、万が一失敗すれば、その責は異家の軍師に自家の兵を預けるという決断を下した、総大将である家康自身が全てを負うことになる。それは、家康が自らの退路を断ち、源次の策に己の首と徳川家の未来を賭けるという、無言の覚悟の表明であった。

 天幕の中の空気が、再び凍りつく。徳川の武将たちは、主君のその決断の重みに、もはや何一つ反論できなかった。

 源次は、震える膝を必死に抑え、畳に両手をついた。

(……俺に賭けてくれた。井伊の軍師である俺を信じ、徳川の兵まで預け、その責任の全てを自ら背負うというのか……!)

 彼は顔を上げられなかった。ただ、声を絞り出した。

「――御意。預かりました兵、一人たりとも無駄にはいたしませぬ。必ずや、勝利をお届けいたします」

 その声だけが、静寂の中に確か響いた。


 その夜、出陣前の束の間の静寂の中、源次は「餌」となる部隊の若武者たちを密かに呼び集めた。

「いいか、よく聞け」

 彼の声は、昼間の軍議とは打って変わって、熱を帯びていた。

「お前たちが今からやることは、ただの敗走じゃない。敵を、俺が指定した『死地』へと正確に誘導する、極めて精密な操船術のようなものだ。決して深追いするな。敵が姿を現した瞬間、恥も外聞もなく、全力で逃げろ。お前らの無様な逃げっぷりこそが、この戦の勝敗を決するのだ。そして、必ず生き残れ。お前たちは、この戦の真の英雄になるのだからな」

 その言葉に、若武者たちの瞳に決死の覚悟が宿った。

 夜が明け、戦端が開かれる。

 源次の描いた壮大で非情な罠が、今まさに動き出そうとしていた。

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