第171節『開戦』
第171節『開戦』
一言坂近くに設けられた徳川軍の本陣は、決戦を目前にした夜の静寂と、凍てつくような緊張に包まれていた。
源次の描いた壮大な罠は、すでに仕掛けられていた。新太率いる遊撃隊は祝田の谷に息を潜め、徳川の本隊もまた、「偽りの敗走」を演じるための配置を終えている。
あとは、焦れた馬場信春が、我々徳川本隊をおびき出すために、二俣城への見せかけの総攻撃を開始するなど、何らかの「引き金」が引かれるのを待つだけだった。
その時。
「申し上げます――!」
天幕が乱暴に開かれ、伝令が転がり込んできた。血と泥にまみれたその姿は、地獄を見てきた者のそれだった。
「二俣城……もはや限界にございます! 城内の水が濁り果て、落城はもはや時間の問題とのことにございます!」
声は途切れ、喉を引き裂かれたように震えていた。
その報告に、本多忠勝が床几を蹴立てて立ち上がった。
「もう待てぬ! 殿、ご決断を! このままでは二俣が見殺しになりますぞ!」
「そうだ! 今こそ我らが打って出る時!」
大久保忠世ら武断派の目が、一斉に上座の家康へと注がれる。
家康は地図を睨んだまま、唇を噛んでいた。彼の心もまた、激しく揺れていた。
広間の視線が、ただ一人、静かに座す源次へと集まる。
(まずい……まずいぞ、この流れは! 俺の計画では、敵の『見せかけの攻撃』をきっかけに、こちらも『偽りの敗走』を演じるはずだった。だが、これは本物の危機だ! この報告を聞いた家康殿や忠勝殿が、計算された『偽りの敗走』なんて芝居を打てるはずがない。このままでは、計画が崩れるどころか、全員が感情に任せた無謀な突撃に身を投じることになる……!)
自らの介在が歴史を早め、計画の前提を崩してしまったのかもしれないという恐怖。そして、仲間を救いたいという武士たちの「情」が、自らの「理」を押し流そうとしている現実。源次の背筋を、これまで感じたことのない種類の冷たい汗が伝った。
(だが、ここで激情に付き合えば全滅だ。止める……! いや、違う。この熱狂すら利用して、俺の描いた筋書きに無理やり引きずり込むんだ!)
源次は立ち上がった。
「お待ちください! これこそが、敵将・馬場信春が我らをおびき出すために仕掛けた最後の罠にございます!」
彼の声は、天幕の熱気を切り裂くように響いた。
「罠だと!? 仲間が渇きに苦しんでいるのが見えぬか!」と忠勝が吠える。
「ええ、見えております。だからこそ申し上げているのです。敵は、我らがこの報せに焦り、救援のために突出することを待っているのです! 二俣城を『餌』に、我ら本隊を平地におびき出し、伏兵をもって殲滅する。先の敗戦と全く同じ筋書きにございます!」
「またその物言いか!」
「ですが、考えてもみてください」と源次は続ける。「なぜ、これほど重要な二俣城攻めの指揮を、馬場信春に任せているのか。それは、この戦が武田本隊にとって、まだ前哨戦に過ぎないからです。彼らの真の狙いは、二俣城を落とすことではない。我ら連合軍をこの地で叩き潰し、来たるべき上洛の進軍路を、完全に安全なものとすることにあります!」
その言葉に、家康の目が鋭く光った。単なる救援戦ではない。敵のより大きな戦略意図を喝破した源次の言葉は、武将たちの熱狂に冷や水を浴びせた。
(そうだ、俺の役目は、この局地戦に勝つことじゃない。この戦を『終わらせる』ことだ。二俣城の兵を救い、かつ、連合軍の損害を最小限に抑え、馬場信春に『これ以上は進めない』と思わせ、甲斐へ撤退させる。それこそが、直虎様が望む、誰も死なない未来への唯一の道だ!)
源次は地図の上に駒を置いた。
「……二俣城は救います。しかし、力攻めではありませぬ。皆の衆には、計画通り、あえて敗走を演じていただきます」
「これほどの危機に、逃げろと申すか!」
「はい。しかし、ただの敗走ではありませぬ。敵の伏兵を、さらに大きな罠へと誘い込むための、『勝つための敗走』にございます」
その瞳には、狂気にも似た絶対の自信が宿っていた。徳川の武将たちは言葉を失い、ただ、この若き軍師が描く壮大な絵図の幕開けを、固唾をのんで見守るしかなかった。