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第170節『仕掛けられた罠』

第170節『仕掛けられた罠』

 一言坂近くに設けられた徳川軍の本陣は、夜の静寂と戦の前の熱気が入り混じり、異様な空気に包まれていた。

 本陣の天幕の中、地図を前にした源次の顔は、油皿の炎に照らされて険しい。

 彼が立案した罠――それは、徳川本隊を**「最強の囮」**として武田主力を誘い出し、伏兵で殲滅するという、あまりにも大胆かつ非情な策であった。


(作戦はこうだ。まず、徳川本隊は二俣城救援を掲げて進軍し、武田本隊と正面からぶつかる。だが、決戦はしない。数合打ち合った後、我らは一斉に敗走を開始する。それも、先の敗戦のように無様に、無秩序にだ。これにより、馬場信春に「徳川はまたも同じ過ちを犯した」と確信させ、深追いさせる)

(そして、敗走する我らを追って敵がこの祝田ほうだの谷に雪崩れ込んだ瞬間――谷の両翼に潜ませた新太の遊撃隊と、井伊の本隊が一斉に火矢と鉄砲を浴びせ、退路を断つ。そこで初めて、敗走していたはずの徳川本隊が反転し、袋の鼠となった武田を殲滅する)


 その作戦の肝は、味方である徳川の兵にすら、作戦の全貌を知らせないことだった。彼らが本気で戦い、本気で敗走を信じるからこそ、罠は真実味を帯びる。

(味方すら欺く……。軍師としては正しい。だが……)

 その非情さに、源次自身、胸の奥が冷たくなるのを感じていた。


 その時。

「申し上げます――!」

 天幕が乱暴に開かれ、伝令が転がり込んできた。血と泥にまみれたその姿は、地獄を見てきた者のそれだった。

「二俣城……もはや限界にございます! 城主・中根正照様より、最後のご奉公と……!」

 声は途切れ、喉を引き裂かれたように震えていた。


 天幕の中の空気が凍り付いた。

 家康は立ち上がり、伝令が差し出す血染めの書状を受け取った。紙のぬめりとした感触が、仲間の死を現実として突きつける。

「……正照……」

 低く唸った家康の背筋を、冷たい戦慄が駆け抜けた。

 その瞳が、怒りと悲しみに燃え上がる。

「……源次殿」

 家康の声は、抑えられていたがゆえに、恐ろしいほどの圧を帯びていた。「作戦は分かっておる。二俣の兵には、あと半日耐えよと伝えてある。じゃが……それでも、本当に良いのか。仲間を『囮』として見捨て、我らが勝利を得る。それが、将の道なのか」


 その叫びに、本多忠勝が一歩進み出る。

「殿……。この忠勝、軍師殿の策には従いましょう。されど、仲間を見殺しにするのは……」

 徳川の武将たちの顔に、苦渋の色が浮かぶ。作戦の非情さを、誰もが理解していた。


 源次は唇を噛んだ。

(来たか……。計算通りだが、心が痛む)

 彼は静かに立ち上がった。

「家康様、お気持ちは重々お察しいたします。ですが、ここで我らが突撃すれば、二俣の兵も、我ら本隊も、すべてを失います。非情の策なればこそ、やり遂げねば意味がない。耐えることこそが、彼らを救う唯一の道なのです」


 家康の拳が、卓の上で固く握りしめられた。指の関節が白くなる。

 激情が、喉元までせり上がってくる。

 だが――。

 彼の脳裏に、先の敗戦で死んでいった兵たちの顔が浮かんでいた。あの時、感情に任せて突撃した結果が、この惨状なのだ。

(……儂は、また同じ過ちを繰り返すところであったか)

 家康は、燃え盛る感情を、鋼の意志で無理やりねじ伏せた。

「……分かった」

 絞り出すような声だった。

「……全軍、源次殿の策に従う。一手たりとも、乱すな」


 その一言に、本多忠勝は「殿!」と叫びかけたが、家康の鬼神のごとき形相を前に、言葉を呑んだ。

 主君は、涙をこらえ、血を吐くような思いで、この非情なまでの「理」を選んだのだ。

 天幕の中は、息苦しいほどの沈黙に支配された。

 だがそれは、分裂の沈黙ではなかった。総大将の苦渋の決断の下に、連合軍が一つの意志へと収束していく、鋼のような静寂であった。

 源次は深く頭を垂れた。

(耐えてくれた……! この人ならば……!)

 胸の奥に、家康という男への畏敬の念が、確かな形となって芽生えていた。

 ――作戦は、続行される。

 決戦の夜は、目前に迫っていた。

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