第17節『訓練改革』
第17節『訓練改革』
普請の一件以来、源次を取り巻く空気は明らかに変わっていた。
足軽長屋に戻っても、もはや誰も彼を新参者としてあしらうことはない。
あからさまに頭を下げるわけではないが、槍を磨きながらちらりと視線を寄越し、何やら相談したげに口を開きかけては飲み込む者も増えていた。
「ふむ……まあ、悪い気はせんけどな」
源次は心中で苦笑する。
ただ川普請の工夫を提案しただけだというのに、人の評価とはかくも早く変わる。
その変化を肌で感じながら、彼は日々の訓練に加わり、じっと周囲を観察していた。
その訓練風景は、源次の目にはどうにも歯がゆく映る。
掛け声とともに、百人余りの足軽たちが槍を突き出す。
一斉に「やぁ!」と声を張り、泥の地面を踏み固める音が響く。
だが、次第に腕は重くなり、腰もぐらつき、動きが乱れる。
やがて足元をふらつかせた者が、槍を取り落とす。
「立て! 気を抜くな!」
教官役の老兵が怒鳴りつける。
倒れた足軽は歯を食いしばり、再び槍を握り直して振るい始める。
「……これじゃあ、ただの根比べだな」
源次は槍を振る手を止めぬまま、心の中で呟いた。
千本もの突きをただ繰り返す。
気力が続くうちはよいが、疲れが蓄積すれば構えは崩れ、狙いも甘くなる。
結局、技は身につかず、ただ体をすり減らすばかり。
現代でいえば、筋を痛めて怪我人が続出するのも時間の問題だ。
その日の訓練が終わり、槍の手入れをしていると、重吉が隣に腰を下ろした。
年季の入った刀傷のある腕で槍の穂を磨きながら、源次の横顔をじっと眺める。
「何やら、面白くなさそうな顔をしておったな」
「え?」
「お主、訓練を眺めながら眉をひそめておった。何か気づいたことがあるのであろう」
源次は一瞬言葉を迷った。
下手なことを言えば、生意気だと嫌われるかもしれない。
だが、重吉相手なら、と思い直し口を開いた。
「皆、必死に槍を振っていますが……どうにも無駄が多い気がします。疲れ果てて倒れる者も出て、それを叱咤して続けさせる。これでは体を壊すだけで、槍の冴えはむしろ鈍るかと」
重吉は「ほう」と低く唸った。
布で穂先を拭きながら、遠い目をする。
「確かにの。わしも若い頃、あのやり方で腰を痛めたことがある。昔から続くやり方じゃが……理に適っておるかと問われれば、首を傾げざるを得ぬな」
その言葉に、源次は胸をなで下ろす。
やはり重吉は只者ではない。
理解してくれる人物がいるだけで、心強さは段違いだった。
数日後。
訓練の最中に、案の定、ひとりの若い足軽が槍を振りながら崩れ落ちた。
息が上がり、顔は真っ青で立ち上がることもできない。
「この意気地なしが!」
教官の老兵が容赦なく怒鳴り、足で泥を蹴り上げる。
だが源次は堪えきれず、一歩前に出た。
「恐れながら――少し、やり方を変えてみては如何でしょうか」
場が一瞬静まった。
老兵は目を細め、ぎろりと源次を睨む。
「何だと?」
「千本を一度に振るのではなく、百本を十回に分け、その合間に短く息を整える時を設けるのです。
疲れを引きずったまま続けるより、かえって槍筋が乱れず、長く保てましょう」
「……休めだと? 戦場で休む暇があるものか!」
「戦でも潮の流れはあります。息を継ぐ間を知る者の方が、長く槍を振るえるはず」
源次は言葉を選びながら続けた。
「さらに、槍を振るばかりでは足腰が持ちませぬ。丸太を担いで歩けば、槍を支える力がつきましょう。
また、二人一組で突きを交わす訓練をすれば、ただ振るだけでなく、避ける目も養えます」
ざわ……と足軽たちがざわめいた。
中には鼻で笑う者もいる。
「要は楽をしたいだけだろう」
「小賢しいことを……」
老兵もまた、吐き捨てるように言った。
「貴様のような青二才に、槍の稽古の何がわかる」
その時だった。
列の後ろから重吉の声が響いた。
「まあ待て」
老兵も足軽たちも振り返る。
重吉はゆっくりと前に出て、源次の肩に手を置いた。
「戦にも潮時がある。引き際を知らぬ者はただの猪武者よ。この男の申すこと、一度試してみる価値はあるやもしれん」
古参である重吉の言葉は重い。
老兵も渋々唸り、「……ならば一度やってみるがよい」と折れた。
翌日から、源次の提案した新たな訓練が始まった。
百本の突きを終えた後、全員で深く息を整える。
最初は「こんな間延びした稽古で強くなるものか」と不満の声が漏れた。
だが、休息を挟んだ分、槍筋が最後まで崩れないことに、やがて気づき始める。
さらに丸太を担いでの行軍。
泥濘む地を踏みしめ、背中に食い込む重みを堪える。
初めは罵声混じりだった足軽たちも、日に日に足腰が強まるのを感じていた。
「おい、昨日より楽に担げるぞ……」
「確かに、槍を構えたときの腰の据わりが違う」
二人一組での避け稽古では、突きを受ける側も必死だ。
ただ受けるのではなく、身をかわし、間合いを計る。
泥に転がりながらも笑い声が混じり始め、訓練場の空気は徐々に変わっていった。
数週間後の模擬戦。
源次の組は、従来通りの稽古を重ねた組と対峙した。
号令とともに突き出される槍。
だが源次の仲間は息の合わせ方を知っている。
疲れを見せず、鋭い突きを繰り出し続けた。
足腰はぶれず、構えも揺るがない。
結果は圧勝だった。
従来組は次々と息が上がり、足をもつらせる。
対する源次の組は最後まで息を合わせ、敵を押し崩した。
沈黙の後、歓声が湧き上がった。
「なんと……」
「本当に強くなってやがる……」
かつて源次を笑っていた者たちも、その実効を否応なく認めるしかなかった。
訓練の後、足軽たちは自然と源次の周りに集まった。
「次はどうすればいい?」
「俺の構えを見てくれ!」
彼らの眼差しには、もはや侮りはない。
敬意と期待があった。
源次は一瞬戸惑ったが、やがて頷き、一人ひとりに指導を始めた。
泥にまみれた槍を握り直す手に、力がこもる。
重吉はその様子を少し離れて眺め、満足げに頷いた。
――知恵によって人を導く。
槍の腕前ではなく、工夫と理で仲間を強くする。
源次はいつの間にか、この荒くれ者たちの中で、新たなリーダーとして立っていたのだった。