第169節『武田、動く』
第169節『武田、動く』
武田本陣。寒風に揺れる陣幕の内で、馬場信春は地図を睨みつけていた。
彼の前には、遠江の広大な地図が広げられている。その上には、二つの大きな戦線が形成されていた。
一つは、天竜川の喉元に食らいつく、二俣城包囲軍。彼らは昼夜を問わず城を攻め立てているが、頑強な抵抗にあい、未だ決定打を欠いていた。
そしてもう一つが、浜松城の徳川本隊を睨みつける、この馬場信春率いる本隊。いわば、二俣城へ援軍を送らせないための「重石」である。互いに数万の兵が睨み合い、動けば全軍が崩れかねない危うい均衡が続いていた。
だが、その二つの戦線の間、つまり武田軍の支配地域であるはずの山中で、忌々しい動きがあった。
幾度も繰り返された遊撃戦の報告は、彼の胸に焦燥を積み重ねる。信濃から二俣へと続く兵糧道を狙う、神出鬼没の鼠ども。斥候が斬られ、兵糧が奪われ、夜襲に眠りを削がれる。熟練の将といえども、刻一刻と蝕まれる兵の士気を無視することはできなかった。
(これ以上の膠着は許されぬ。二俣の包囲軍も疲弊しておる。浜松の若造も、鼠どもの戦果に気を良くして、いずれ動くやもしれん。ならば――)
彼は机に拳を叩きつけた。硬い木が低く鳴り、その音が諸将の胸を震わせる。
「浜松を叩く! 全軍、明日未明に徳川本隊を誘き出し、野戦にて粉砕する! 主力を失えば、二俣など赤子の手をひねるも同然よ!」
声は怒号ではなく、将としての決意を帯びて重く響いた。集められた武将たちが息を呑み、やがて一斉に頭を垂れる。
丑三つ時。厚い雲が空を覆い、月明かりは絶えた。黒い龍のごとき隊列が音もなく動き始める。鎧が擦れ合う微かな音、吐息に混じる白い煙。数万の兵が潜む夜は、凍てつくような緊張で満ちていた。
その頃、浜松城。
物見櫓に詰めていた兵士が、北西の闇を凝視して声を上げた。
「狼煙! 二俣城方面の物見より! 赤き狼煙! 武田、動きました!」
炎の筋が空に立ち上る。赤き光は夜の帳を貫き、風に流されながら城下へと告げる。
「来たぞ……!」「源次様の言っていた通りだ! 本当に敵が動いた!」
練兵場に待機していた兵たちは一斉にざわめいた。ここ数日、「来るぞ、来るぞ」と囁かれ続けていた敵の襲来が、寸分違わぬ形で現実となったのだ。その予測の的中に、兵たちの間に人知を超えたものを見るような畏怖と興奮が走り、源次への信頼は絶対的なものへと変わっていった。
「我らの軍師は神のごとき御方……!」
最前線の指揮所で報せを受けた源次は、冷静に地図へ視線を落とした。
指先は震えてはいなかった。だが、彼の胸の奥では二つの感情が激しく渦巻いていた。
(キタキタキタァァァ! マジで予言通りじゃん! 俺の読み、完璧すぎ! これで馬場信春を完全に掌で転がせる! 興奮で震えが止まんねえ!)
しかし、その熱狂を鎮めるように、もっと深く、静かな想いが燃えていた。
(この戦、必ず勝つ。そして、この勝利を直虎様に捧げるんだ。あの人が安心して笑ってくれるなら、俺はどんな化け物とでも呼ばれてやる…!)
城内に急報が届き、家康の御座所もざわめき立つ。
報告を聞いた家康は、一瞬の沈黙ののち、むしろ愉悦に似た熱を覚えた。
「……本当に読み切りおったか、あの男。面白い!」
具体的な日時まで告げられていた彼は、その予測の的中に戦慄していた。
傍らに控える本多忠勝が、低く呟く。「信じ難い……だが、事実だ」
その声には、もはや疑念ではなく、純粋な戦慄がこもっていた。
家康は立ち上がり、采配を手に取った。
「全軍、出陣! 計画通り、敵を罠へおびき寄せるぞ!」
その覇気ある声が城を震わせる。兵らは一斉に立ち上がり、鬨の声を上げた。
しかし、家康の心の奥底には、興奮とは別の、冷たい感情が芽生えていた。
(あの男…源次。その潮読みは、もはや神業の域にある。頼もしい。だが、頼もしすぎる。これほどの男を、いつまでもただの陪臣としておけるものか……)
勝利への期待と、底知れぬ臣下への微かな畏怖。その二つが、彼の胸中で静かに渦を巻き始めていた。
城門が開く。静かに、だが確実に進み出る武士たち。夜の冷気を切り裂き、源次の策によって配置された陣が展開される。
巨大な罠が、いま動き始めたのだった。