第168節『軍師の読み』
第168節『軍師の読み』
浜松城の練兵場には、まだ朝露の気配が残っていた。だが地を踏み鳴らす兵の足音と、統一された掛け声が、その清澄な空気を震わせていた。
「一、二! 一、二!」
榊原康政の声に合わせて、槍を構えた列が一糸乱れず前進する。かつては散漫だった若武者たちが、いまや戦場を模した演習を的確にこなしていた。槍の先は真っ直ぐ、盾を掲げる腕には迷いがない。
その様子を、腕を組んだまま見つめている男がいた。本多忠勝である。
彼の双眸は鋭い。だがそこには敵意も嘲りもなく、ただ純粋な観察の光が宿っていた。
訓練を終えた列が整然と退き、兵らの息が白く立ちのぼる。かつて敗戦で曇っていた目に、いまは確かな光が宿っている。それを見た忠勝は、心の奥底で静かに揺らいだ。
(あの井伊の軍師が始めた奇妙な訓練――ただの盤上遊戯と思っていた。だが兵の眼がこれほどまでに変わるとは…。)
彼は槍の柄をぎゅっと握りしめ、訓練場を後にする源次に声をかけた。
「源次殿」
振り返った源次は、汗を拭いながらも真っ直ぐな眼を向けた。
「貴殿の戦、俺にはまだ分からん。だが、兵の目が変わったことだけは確かだ。……貴殿は、何を見ている?」
問いかけには敵意ではなく、武人としての真剣な好奇心があった。
源次はわずかに口元をほころばせ、答える。
「私は、戦場に引かれた潮目を見ているだけです」
「潮目……?」「はい。海が満ち引きするように、戦場にも流れがあります。兵糧、士気、地形、将の性格――その全てが織りなす流れを読む。それが、私の役目です」
忠勝は眉を寄せ、黙考する。(潮目か……。俺の槍働きとはまるで異なる理だ。だが、この目で見た兵の変化を否定することはできん)
夜。源次は灯火に照らされた私室にいた。机の上には、各地から届いた遊撃隊の報告書。墨の匂いが漂い、紙の上には兵糧消費の数字や、敵陣の動揺が記されている。
(よしよし、いい感じに効いてるな。ゲリラ戦でジワジワ削って、兵糧は減るわ、兵士はビビるわで、武田軍も相当イライラしてるはずだ。プライドの高い馬場信春みたいなタイプが、このまま黙ってるわけがない)
石を二俣城に置く。
(必ず動く。短期決戦で一気にケリをつけようとするはずだ。そうなると、一番手っ取り早くて手柄としても分かりやすいのは、徳川方の喉元に突き刺さってる二俣城の攻略だよな。そして、この空だ……)
源次は窓の外に目をやった。西の空に、薄く刷毛で掃いたような雲が流れている。風は湿り気を帯び、生暖かい。
(漁師だった頃の爺さんが言っていた。『鰯雲が出て、風が生ぬるい夜の二日後は、決まって天気が崩れる』と。昔の人の知恵、いわゆる観天望気というやつだ。これに現代知識を加えれば、さらに精度は上がる。低気圧が近づいている証拠だ。夜襲をかけるなら、月明かりのない曇り空は絶好の条件。全てのピースが、そこを示している)
彼は指を止め、呟く。「三日後。天候は崩れ、曇りとなる。その夜明け、武田は二俣へ総攻撃を仕掛ける」
自らの声が部屋の静けさに響く。それは予言ではない。集められた全ての情報から導き出された、最も蓋然性の高い未来予測だった。だが、その声にはわずかな震えが混じっていた。
(……もし、外したら? 俺の読み違いで、仲間を死地に送ることになったら……?)
軍師として背負う命の重さに、一瞬、掌が冷たくなる。
だが、彼の心に浮かぶのは直虎の面影だった。
(いや、迷うな。俺が信じなくて、誰がこの策を信じる。この戦でサクッと勝って、できるだけ犠牲を少なくする。そうすりゃ、直虎様も少しは安心して笑ってくれるだろ。俺がやってるのは、全部そのためなんだからな)
翌日。家康の御座所。
源次は膝を正し、地図を広げて進言した。
「家康様。三日後、武田は必ず動きます。狙いは二俣城。全軍をもって」
家康は目を細め、静かに問う。「……なぜ、そこまで言い切れる」
「敵の焦り、将の気質、そして天候。全ての潮の流れが、そう告げております」と源次は静かに答えた。その瞳には、リスクを覚悟した上での、揺るぎない決意が宿っていた。
家康は、源次の神がかり的な読みに畏怖を覚えつつも、これまでの実績を信じ、その策に乗ることを決断した。
「……分かった。全軍、三日後に備えよ。今度は、我らが罠を仕掛ける番だ」
浜松城の空気が、守りから攻めへと転じる緊張感に包まれた。連合軍は、源次の予測を信じ、来るべき決戦に向けて静かに動き始める。