第167節『蜂の一刺し、また一刺し』
第167節『蜂の一刺し、また一刺し』
夜の闇が、遠州の山野を覆っていた。月は雲に隠れ、星明りさえ頼りない。湿った土の匂いが立ち込め、冷えた空気が兵たちの頬を刺す。
新太は崖の上に身を潜め、眼下の街道をじっと見下ろしていた。松明の明かりに照らされ、小荷駄隊が列をなして進んでいる。米俵を積んだ馬が喘ぎ、武田の兵が警戒の目を光らせている。
「……今だ」
低い声。合図と同時に、崖の上から大石が転がされた。
ごろごろと轟音を立てて坂を落ちる石は、馬の脚を直撃し、列はたちまち大混乱に陥る。悲鳴、怒号、馬の嘶き。そこへ矢が数本、暗闇から飛来し、先頭の兵を射抜いた。
「敵襲だ! 追え!」
武田兵が叫ぶ。だが、新太たちはもう姿を消していた。森の奥へと駆け去り、痕跡を残さぬ。
一撃離脱。まさに蜂の一刺し。
翌夜は、川沿いの見張り台が炎に包まれた。その次の夜は、敵陣近くで鬨の声だけをあげて引き揚げた。眠れぬまま武田兵が武装して走り回る間に、新太たちはすでに遠くに消えている。
(大手柄なんていらねぇ。ただ敵を苛立たせ、眠れなくさせればいい。それで十分だ)
新太は心中で呟き、口元に冷ややかな笑みを浮かべた。
その報せは、連日のように浜松城へもたらされた。
「遊撃隊、昨夜は小荷駄を一隊足止め。米三俵を奪取!」「川沿いの見張り台を焼き払い、敵兵十余名を負傷!」
練兵場に伝令が駆け込むたび、兵たちの眼差しが変わっていった。当初は「なんと地味な手柄よ」と半信半疑だった徳川の若武者たちも、次第にその表情を変える。
「……地味だが、確かに効いているな」「源次殿の言っていた通りだ。敵の得意な野戦を避け、こうしてじわじわと力を削いでいく……これこそが我らの戦い方か!」
練兵場では机上演習の駒を動かす手が止まらない。兵たちの声が熱を帯び、槍を握る腕に力が戻る。
「俺たちもやれるぞ!」「次の戦では、この策を試してみたい!」
掛け声が響き、汗の匂いが場に満ちた。敗戦に沈んでいた士気は、いつしか高揚へと変わっていく。
夕暮れ。家康が源次に与えた城内の一室で、彼は一人、報告を一つひとつ地図へ落とし込んでいた。この部屋は、表向きは使者への厚遇だが、その実、彼の知恵と行動を常に監視下に置くための、家康による巧妙な策でもあった。
「……よし。斥候の動きは鈍った。補給路も揺らぎ始めたな」
(よしよし、コンボ決まってる! 新太の蜂の一刺しに、城内の訓練。現実と理論がリンクして、兵のやる気が倍増だ。完璧な育成シミュレーションじゃん!)
だが同時に、もっと深い思いが胸を占める。
(兵たちの目に光が戻ってきた……。この光を守らなきゃならない。直虎様が安心して井伊谷にいられるように、そのためなら、俺はどんな非情な手でも使う)
指先が地図上の「二俣城」を円で囲む。
(次の舞台はここだ。武田が苛立ち、必ず大きな一手を打ってくる……その時こそ)
源次の目が細く光った。
その夜、家康の私室。
障子の向こうに揺れる源次の部屋の灯りを、酒井忠次が静かに見つめていた。彼は家康の命を受け、この得体の知れない軍師の動向を監視する役目を担っていたのだ。
「――殿。井伊の軍師殿は、先ほどより地図を広げたまま、微動だにしておりませぬ」
忠次の報告に、家康は碁石を打つ手を止め、ふっと笑みを漏らした。
「……ただ敵を削るだけではない。味方の心までも操りおったか。恐ろしい男よ」
忠次は頷いた。「はい。されど、そのおかげで兵たちの目に光が戻ったのもまた事実。我らにとって、毒か薬か……」
家康は碁盤に視線を戻し、ぱちり、と石を置いた。
「どちらでもよい。今はただ、使える駒はすべて使うまでよ」
その横顔には、源次の底知れぬ手腕に対する、笑みと畏れが同時に浮かんでいた。
浜松城の空気は、確かに変わっていた。
敗戦の絶望を越え、再び戦う軍の気配が、そこに芽吹いていた。