表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
167/300

第167節『蜂の一刺し、また一刺し』

第167節『蜂の一刺し、また一刺し』

 夜の闇が、遠州の山野を覆っていた。月は雲に隠れ、星明りさえ頼りない。湿った土の匂いが立ち込め、冷えた空気が兵たちの頬を刺す。


 新太は崖の上に身を潜め、眼下の街道をじっと見下ろしていた。松明の明かりに照らされ、小荷駄隊が列をなして進んでいる。米俵を積んだ馬が喘ぎ、武田の兵が警戒の目を光らせている。

「……今だ」

 低い声。合図と同時に、崖の上から大石が転がされた。

 ごろごろと轟音を立てて坂を落ちる石は、馬の脚を直撃し、列はたちまち大混乱に陥る。悲鳴、怒号、馬の嘶き。そこへ矢が数本、暗闇から飛来し、先頭の兵を射抜いた。

「敵襲だ! 追え!」

 武田兵が叫ぶ。だが、新太たちはもう姿を消していた。森の奥へと駆け去り、痕跡を残さぬ。


 一撃離脱。まさに蜂の一刺し。

 翌夜は、川沿いの見張り台が炎に包まれた。その次の夜は、敵陣近くで鬨の声だけをあげて引き揚げた。眠れぬまま武田兵が武装して走り回る間に、新太たちはすでに遠くに消えている。

(大手柄なんていらねぇ。ただ敵を苛立たせ、眠れなくさせればいい。それで十分だ)

 新太は心中で呟き、口元に冷ややかな笑みを浮かべた。


 その報せは、連日のように浜松城へもたらされた。

「遊撃隊、昨夜は小荷駄を一隊足止め。米三俵を奪取!」「川沿いの見張り台を焼き払い、敵兵十余名を負傷!」

 練兵場に伝令が駆け込むたび、兵たちの眼差しが変わっていった。当初は「なんと地味な手柄よ」と半信半疑だった徳川の若武者たちも、次第にその表情を変える。

「……地味だが、確かに効いているな」「源次殿の言っていた通りだ。敵の得意な野戦を避け、こうしてじわじわと力を削いでいく……これこそが我らの戦い方か!」


 練兵場では机上演習の駒を動かす手が止まらない。兵たちの声が熱を帯び、槍を握る腕に力が戻る。

「俺たちもやれるぞ!」「次の戦では、この策を試してみたい!」

 掛け声が響き、汗の匂いが場に満ちた。敗戦に沈んでいた士気は、いつしか高揚へと変わっていく。


 夕暮れ。家康が源次に与えた城内の一室で、彼は一人、報告を一つひとつ地図へ落とし込んでいた。この部屋は、表向きは使者への厚遇だが、その実、彼の知恵と行動を常に監視下に置くための、家康による巧妙な策でもあった。

「……よし。斥候の動きは鈍った。補給路も揺らぎ始めたな」

(よしよし、コンボ決まってる! 新太の蜂の一刺しに、城内の訓練。現実と理論がリンクして、兵のやる気が倍増だ。完璧な育成シミュレーションじゃん!)

 だが同時に、もっと深い思いが胸を占める。

(兵たちの目に光が戻ってきた……。この光を守らなきゃならない。直虎様が安心して井伊谷にいられるように、そのためなら、俺はどんな非情な手でも使う)

 指先が地図上の「二俣城」を円で囲む。

(次の舞台はここだ。武田が苛立ち、必ず大きな一手を打ってくる……その時こそ)

 源次の目が細く光った。


 その夜、家康の私室。

 障子の向こうに揺れる源次の部屋の灯りを、酒井忠次が静かに見つめていた。彼は家康の命を受け、この得体の知れない軍師の動向を監視する役目を担っていたのだ。

「――殿。井伊の軍師殿は、先ほどより地図を広げたまま、微動だにしておりませぬ」

 忠次の報告に、家康は碁石を打つ手を止め、ふっと笑みを漏らした。

「……ただ敵を削るだけではない。味方の心までも操りおったか。恐ろしい男よ」

 忠次は頷いた。「はい。されど、そのおかげで兵たちの目に光が戻ったのもまた事実。我らにとって、毒か薬か……」

 家康は碁盤に視線を戻し、ぱちり、と石を置いた。

「どちらでもよい。今はただ、使える駒はすべて使うまでよ」

 その横顔には、源次の底知れぬ手腕に対する、笑みと畏れが同時に浮かんでいた。


 浜松城の空気は、確かに変わっていた。

 敗戦の絶望を越え、再び戦う軍の気配が、そこに芽吹いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ