第166節『知の練兵』
第166節『知の練兵』
浜松城の練兵場は、朝の湿り気を帯びた空気に包まれていた。
新太率いる遊撃隊が城外で武田の神経を削っている一方で、城内に留め置かれた徳川の本隊は、先の敗戦の傷も癒えぬまま、やるせない空気に沈んでいた。草の匂いと土の匂いが立ち込め、兵たちが列をなして集まる。しかしその雰囲気は張りを欠き、誰もが気の抜けた顔をしていた。
「どうせまた槍の素振りだろう」「戦もないのに、何の意味があるんだか」
囁き声があちこちで漏れ、やる気のなさを隠そうともしない。
そこへ榊原康政が姿を現した。若き将の背筋は真っすぐで、涼やかな声が練兵場に響く。
彼は、源次が考案したこの新たな訓練法にいち早く理解を示し、その実行役を自ら買って出た数少ない将の一人だった。
「本日の鍛錬は、これまでとは異なる。まずは、この盤を使う」
兵たちの前に、大きな木の盤が運び込まれる。将棋盤を広げたような板の上には、兵や馬を模した駒が並んでいた。
「なんだ、遊びか?」「子供の戯れに見えるぞ」
失笑が広がる。
だが榊原康政は静かに続けた。
「戦は槍だけでは勝てぬ。目で見、頭で考え、戦の理を知ることこそ肝要だ。まずは先の敗戦を再現してみよう」
この「兵棋演習」とも言うべき訓練法は、源次が考案したものだった。この時代の訓練は、個々の武芸を磨くか、陣形を組んで行進するかが主であり、敵味方の動きを盤上でシミュレートするという発想は、ほとんど存在しなかった。
「源次殿、助言を」
康政が横に控える源次を振り向いた。源次は一歩前に進み出ると、駒を軽く指でつまみ、盤の上に置いた。
「なぜ我らは敗れたか――その答えはここにある」
兵たちが思わず息を呑んだ。源次は淡々と駒を動かしていく。
「この突撃。見た目は勇猛だが、敵陣に吸い込まれた瞬間、左右から挟撃を受ける」
左右の駒が包み込むように迫り、中央の徳川軍が狭められていく。
「分断された部隊は孤立し、退く道も失った」
その言葉と同時に、盤上の徳川軍は殲滅される形となった。
兵士たちの背筋に冷たいものが走った。脳裏に、あの日の戦場が甦る。仲間が叫び、血に染まり、包囲されていくあの絶望。
(そうだ……俺たちは、こうやって殺されたんだ……! この男には全てが見えていたのか!?)
周囲の兵たちも顔色を変え、盤上を食い入るように見つめていた。
源次自身も、自らの解説に内心で驚いていた。
(あれ……? 俺、なんでこんなにスラスラ言葉が出てくるんだ? 歴史書を読んで知ってはいたけど、それを人に教え、納得させる言葉が、勝手に口から……。これが、軍師としての才能ってやつか……?)
康政は頷き、声を張る。
「では、今度は逆にしてみよう。鶴翼に対し、どう動けば勝ち得るか!」
源次は康政に耳打ちする。康政はその言葉を受け、兵たちに命じた。
「右翼を下げよ! 中央を厚くし、敵の翼を誘い込め!」
練兵場に声が響き渡る。兵たちは盤を真似、陣形を取り始めた。最初はぎこちなかったが、次第に統率が整っていく。
「敵が包み込もうとした瞬間――中央が突破口を開く!」
康政の号令と同時に、兵たちが一斉に駆ける。大地を打つ足音が揃い、鬨の声が上がった。
一人の若武者は息を荒げながら、隣の仲間の肩を掴んだ。
(これは……面白い! ただ槍を振るうだけじゃない。仲間と気を合わせ、敵の動きを読む。この戦い方なら、勝てるかもしれない!)
額から汗が滴り、鎧の下に熱がこもる。兵たちの眼差しは、もはや最初の嘲笑ではなかった。
遠くで本多忠勝が腕を組み、眺めていた。
「……榊原、見事な采校よ。だがその采配の源は……井伊の小僧か」
家康もまた縁側から訓練を見つめていた。静かに笑みを浮かべながら。
(面白い……ただの策士ではない。人を使い、組を鍛え、戦の形を変えようとしておる)
訓練が終わるころ、夕暮れの空に狼煙がひとすじ上がった。城外、新太の遊撃隊が牙を研ぎ澄ませている合図だ。
城の外でも内でも、戦力は確実に鍛えられていた。
源次は盤上の駒を片付けながら、胸の内で静かに誓う。
(これで一人でも多く生き残る。直虎様を悲しませぬために……俺は戦の形を変えてみせる)
汗の匂いと熱気が残る練兵場に、新たな活力が芽生えていた。
兵たちは皆、源次の知に導かれ、新しい戦の未来を感じ取っていた。