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第163節『軍師として』

第163節『軍師として』

 評定の間に、家康の声が響いた。

「――次の潮は、いつ、どちらへ流れる? そなたの考えを聞かせよ」


 総大将から、陪臣である井伊の軍師への、直接の問いかけ。

 広間に集う徳川譜代の家臣たちの視線が、一斉に源次へと突き刺さった。それはもはや侮りや嫉妬の色ではなく、この絶望的な膠着状態を打開する知恵を求める、藁にもすがるような真摯な眼差しだった。誰もが答えを持てず、沈黙という名の泥濘に足を取られていたのだ。


 源次は静かに立ち上がり、一礼した。

 背筋を伸ばし、広間を見渡す。本多忠勝の逸る気持ち、酒井忠次の憂慮、そして何より、先の敗戦から学びつつも兵糧問題という新たな焦りに駆られている家康の苦悩。その全てを、彼は冷静に受け止めていた。

(家康殿の焦りは危険水域だ。ここで真正面から持久戦を説いても、逸る武断派の反発を招くだけだ。言葉を選べ…! 彼らの誇りを傷つけず、それでいて最も合理的な道を示すんだ!)


「恐れながら申し上げます」

 源次の声は、驚くほど落ち着いていた。

「今、野戦を挑むは下策。されど、ただ城に籠るもまた下策にございます」

 その言葉に、広間がざわめいた。決戦を望む本多忠勝も、籠城を視野に入れる酒井忠次も、眉をひそめて次の言葉を待つ。

 源次は地図の前に進み出ると、指で盤上をなぞった。

「戦とは、槍を合わせるだけではございません。敵の心を読み、足を止め、腹を空かせ、苛立たせる。その全てが戦にございます。今、我らがすべきは、戦場をこの浜松城の前から、遠江国全土へと広げることにございます」


「どういうことだ?」と家康が問う。その声には、わずかな苛立ちと、それを上回る期待が混じっていた。


「守りながら、攻めるのです」

 源次はきっぱりと言い切った。その瞳には、揺るぎない光が宿っていた。

「名付けて『積極的防御』。ただ待つのではありません。勝つために『待つ』のです。この膠着状態は、我らにとって最高の好機。守りを固めながら、水面下で二つの牙を研ぎ澄ますのです」


 彼は一本目の指を立てた。

「第一の牙は『敵を知る』こと。我らの遊撃隊をさらに活発化させ、敵の兵力配置、将の性格、兵站ルートを徹底的に洗い出します。闇雲に戦うのではなく、敵の弱点を正確に把握するのです」

 次に、二本目の指を立てる。

「第二の牙は『己を鍛える』こと。城内の兵を遊ばせてはなりませぬ。先の敗戦は、我らが武田の戦法を知らなかったが故。その教訓を元に、対武田を想定した新たな陣形訓練を行います」

 本多忠勝の口元が、わずかに引き結ばれた。それは反発ではなく、武人としての興味の表れだった。

 源次は、あえて「罠」という言葉は使わず、続けた。

「この二つの牙を研ぎ続ければ、いずれ敵に必ず隙が生まれます。その時こそ、我らが打って出る好機。今はそのための準備期間と心得ます」

 それは、決戦を望む武断派の顔を立てつつ、実質的には持久戦へと持ち込むための巧みな提案だった。


 家康はその光景に見入っていた。

(なるほど……ただ待つのではない。待ちながら牙を研ぎ、好機を創り出すか。あの男の読みは、やはり常人を超えておる)

 先の敗戦で失いかけた自信が、確かな戦略の前に、少しずつ形を取り戻していくのを感じた。


 しばし沈黙ののち、家康はゆっくりと扇を閉じた。

「……面白い。その策、採用しよう。ただし――」

 家康は一度言葉を切り、忠勝ら武断派の顔を見やった。彼らのプライドにも配慮せねば、軍は動かない。

「遊撃と訓練については、そなたに一任する。だが、打って出るか否か、その最終的な判断は、総大将であるこの儂が下す。それでよいな」

 それは、源次の策の有効性を認めつつも、軍の最終指揮権は手放さないという、家康らしい現実的な妥協案だった。忠勝らも、主君が最終決断を下すという形であれば、と納得したように頷く。

 源次は深く一礼した。

(全権委任ではない、か。まあ、当然だな。だが、それでいい。準備を進める時間は稼げた。あとは、家康が逸る心を抑えきれず、俺の描く『好機』とは違う形で突出しないことを祈るだけだ……)


 密やかな懸念を胸に、軍師は静かに地図を見下ろした。

 彼の描く盤上が、今まさに現実の戦場となろうとしていた。

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