第162節『焦る家康』
第162節『焦る家康』
浜松城の空に、ようやく朝日が差し込んでいた。
一夜明けた城内は、ひとときの安堵に包まれている。武田軍が進軍を止めたとの報せがもたらされて以来、兵たちの顔には久方ぶりに笑みが浮かんでいた。
甲冑を脱ぎ、肩を揉み合う者。矢羽を整えながら冗談を飛ばす者。
「……ようやっと寝られる」「井伊の軍師さま様だな」
誰ともなく漏らした言葉に、場が和やかに沸いた。
中野直之は、その光景を見て小さく息を吐いた。
「これで兵を休ませられる……ありがたいことだ」
その隣に控える源次は、兵たちの緩んだ姿を眺めながらも、表情を曇らせていた。
(いやいや、全然安心できないんだけど……。この膠着状態が一番ヤバいって、なんで誰も気づかないかな)
静けさに包まれた城内にあって、ただ一人、嵐を孕んだような気配が漂っていた。
天守最上階。
家康は障子を開け放ち、遠くに霞む武田の陣を睨み据えていた。
武田菱の旗が、じっと動かず並んでいる。その姿は、獲物を逃がさぬよう息を潜める猛獣のようでもあった。
襖が開き、酒井忠次が入室する。
「殿。武田の動き、完全に止まった模様にございます。井伊の軍師の策、見事でございましたな」
「うむ」と家康は頷いた。その顔に、以前のような激情の色はない。
「あの男の潮読みは、確かであった。儂の過ちを正し、兵の命を救った。その功は認めねばなるまい」
忠次は主君の変化に安堵しつつも、険しい表情で言葉を続けた。「されど、問題が山積しております。先の敗戦で多くの荷駄を失い、三河本国からの補給が思うに任せませぬ。加えて、武田の侵攻を恐れた民や国衆が城へ逃げ込み、城内の米の消費は想定を遥かに超えております。このまま睨み合いが続けば、冬を前に我が方の兵糧が先に尽きましょう」
「それよ」
家康は地図を指差した。
「あの男の策は、敵の足を止めることには成功した。だが、この膠着を破る次の一手は示しておらぬ。このままではジリ貧だ。攻めるべきか、守るべきか……」
膠着状態が長引くことによる兵糧問題という現実的な焦りが、彼の燻る感情に再び火をつけようとしていた。
「忠勝らは、今すぐにも決戦を、と息巻いておる。だが、先の轍は踏めぬ。かといって、ただ籠城を続けても民が飢える。それに、この程度の前哨戦で手間取っていては、いずれ来るであろう信玄本隊との決戦で勝ち目はない。……どうすればよい」
その後の軍議の間は、重苦しい空気に包まれていた。
本多忠勝らが逸る気持ちを抑え、主君の言葉を待っている。誰もが、先の敗戦を経て、単純な決戦論を口にできずにいた。
家康は、集まった家臣たちを見渡し、そして――徳川譜代の重臣たちよりも一段下がった位置ながら、明らかに他の国衆とは別格の席に座る源次に視線を向けた。
「源次殿」
その声は、命令ではなく、問いかけだった。
「そなたの策で、我らは一時、息をつくことができた。だが、この膠着はいずれ我らの首を絞める。――次の潮は、いつ、どちらへ流れる? そなたの考えを聞かせよ」
広間の視線が、一斉に源次へと集まった。
それはもはや、侮りや嫉妬の視線ではない。この難局を打開する知恵を求める、真摯な眼差しだった。
源次は、家康の問いの裏にある焦りを悟り、静かに立ち上がった。
(まずいぞ、この流れ……。家康殿は先の敗戦から学び、慎重になっている。だが、兵糧の問題と民の不安が、彼を再び焦らせ始めている。ここで的確な次の一手を示せなければ、彼はまた危険な決戦論に傾きかねない)
(……領主として、民の心配をするのは当然か。あの人もまた、必死にこの国を背負っているのだな。だが、その焦りが判断を誤らせなければいいが……)
戦場の膠着は、徳川家中に新たな問いを投げかけていた。