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第161節『膠着状態』

第161節『膠着状態』

 夜明け前の森は、冷気に包まれていた。

 湿った土と木の葉の匂いが漂い、鳥の声すら途絶えている。伏兵として配置された武田兵たちは、息を潜め、じっと耳を澄ませていた。


「……まだか」

 囁く声が、闇に溶ける。

 伏兵の指揮官は、鋭い眼で谷を見下ろした。そこに罠が仕掛けられている。敵の残兵が、必ず飛びつくはずだ。


 彼らにとって、この待ち伏せは狩りに等しかった。

「あの忌々しい鼠どもが谷に飛び込んだ瞬間、背後から食い千切る。獲物は逃げ場を失う……」

 兵たちは息を殺し、狩人の時を待った。


 やがて――谷底から鬨の声が轟いた。

「オオオオオ――ッ!」

 炎が上がり、煙が立ちのぼる。

 罠にかかった。誰もがそう確信し、指揮官は口元を歪めた。


「掛かったな!」


 伏兵が一斉に動き出す。谷へと駆け下りようとした、その瞬間。


 ――背後から、怒号が轟いた。


「かかれぇええええッ!」


 森が割れ、朝日を背に受けた新太と遊撃隊が雪崩れ込んだ。槍の穂先が陽光を浴びて閃き、武田兵の背へ突き刺さる。


「なっ……ば、馬鹿な!」

 伏兵の兵士たちは振り返った。だが遅い。

 待ち伏せの姿勢を崩したまま、不意を突かれた彼らは、瞬く間に混乱に飲み込まれた。


「うおおおおッ!」

 新太の咆哮が森を揺るがす。

 槍を構えたまま突進し、一直線に伏兵の指揮官へ迫った。

 刹那――槍先が唸りを上げ、鎧の隙間を貫く。


 指揮官が血を噴き、崩れ落ちる。


 その瞬間、部隊は烏合の衆と化した。


「隊長が……やられた!」

「逃げろ!」

「どこから来たんだ、この連中は!」


 叫びが飛び交い、統率を失った兵たちは互いにぶつかり、同士討ち寸前の混乱に陥る。崖の上からその戦場を俯瞰する源次は、冷ややかな眼差しで全てを見下ろしていた。


(……完璧だ。罠を仕掛けた者こそが、獲物になる。新太、見事な働きだ!)


 彼は息を吸い、手を掲げた。

「退け!」


 遊撃隊は素早く陣を離れ、霧のごとく森に消えていった。


 武田本陣では、泥に塗れた伏兵の生き残りが駆け込み、馬場信春が眉をひそめていた。


「……罠を見破られただと?」


 報告は容赦なく彼の誇りを削いだ。

 伏兵は逆に襲われ、指揮官を討たれた。混乱の中、敵軍は鮮やかに退いた、と。


 馬場は唇を噛み、拳を握る。

(徳川の本隊は敗走したはずだ。日和見の国衆に、我が伏兵を打ち破る力はない。ならば、一体誰が……)

 彼は地図を睨んだ。

(我らの動き……思考の全てを読んだ上で、その裏をかいてきた。これは偶然ではない。敵の中に、俺の軍略を、甲州流の戦の型を完全に理解している者がいる)

 背筋にぞくりと悪寒が走る。

(ただの軍師ではない。人の心を弄び、戦場を意のままにする……化け物だ)


 戦国時代において、伏兵の裏をかくという戦術自体は珍しくない。しかし、源次の策の恐ろしさは、その精密さにあった。歴史研究家として特定の異説を追っていた彼は、その過程でこの時代の主要な戦いの流れや、馬場信春のような有名武将の思考の癖を知識として蓄えていた。彼はその「未来の知識」という大局観と、直虎が命がけで集める「今」のリアルタイムな情報を組み合わせ、さらに漁師として培った「潮目を読む勘」で、敵の次の一手を驚異的な精度で予測していたのだ。その分析力は、まるで未来から戦場を見下ろし、駒を動かしているかのようであった。この一件は、百戦錬磨の馬場信春に、初めて得体の知れない敵への恐怖を植え付けた。


 やがて彼は、深く息を吐いた。

(二俣城は目前。浜松城も手の届くところにある。だが、背後にこれほどの化け物が潜んでいると知って、どうして安心して前進できようか。このまま進めば、必ずや生命線である補給路を完全に断たれる。そうなれば、我らとて遠江の地で干上がるのみ)

「全軍、一時停止。再編せよ」


 その言葉が響いた瞬間、武田の進軍は止まった。二俣城への総攻撃も、浜松への威圧も、全てが中断された。


 狩人であったはずの軍勢は、獲物を仕留め損ね、見えざる敵への恐怖に足を縛られていた。

 戦は――完全な膠着状態へと移り変わっていく。

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