第160節『見抜く目』
第160節『見抜く目』
夜営の焚き火は、乾いた薪をはぜさせながら赤い光を投げていた。
その光に照らされた源次の顔は硬く、深い皺が眉間を刻んでいる。周囲では兵たちが逸る心を抑えきれずにいたが、新太だけは違った。彼は槍の柄を握りしめ、静かに源次のもとへ歩み寄った。
「源次。この獲物、あまりに美味そうだが……お前の潮読みではどう映る?」
その声は、ただ出陣を急かすものではない。これまでの戦で源次の神がかり的な予測を目の当たりにしてきたからこその、武人としての直感を確かめる問いだった。
「馬場信春ほどの将が、これほど分かりやすい隙を見せるものか。俺には……どうにも腑に落ちん」
源次は顔を上げ、新太の目に宿る冷静な光を見て、静かに頷いた。
「……俺も同じことを考えていた。これは、あまりに都合が良すぎる」
源次は地図を広げた。
(馬場信春は、甲州流軍学の大家。敵を誘い込み、伏兵で殲滅するは、武田のお家芸だ。史実を紐解けば、信玄公も三増峠の戦で同じ手を使った。敗走を装った部隊で敵をおびき寄せ、伏兵で挟み撃ちにする…)
内心で過去の戦例を反芻しながら、源次は炭で谷の両脇に広がる森を囲んだ。
「もし罠ならば、伏兵はこの森に潜んでいるはずだ」
新太はその一点を睨み、唇を噛んだ。「だが、もしこれが罠でなかったとしたら、我らは千載一遇の好機を逃すことになる」
その時、一騎の伝令が闇を裂いて現れた。
「井伊谷からの密書にございます!」
源次は素早く封を切る。油火にかざして文字を追うと、そこには直虎が集めた情報が細やかに記されていた。彼女が組織した諜報網――商人や山伏に扮した者たちが、命がけで敵陣近くの村々まで潜入し、聞き出した情報だった。
「……敵の小荷駄隊とすれ違った村人の話。『荷を運ぶ馬の足取りが、米俵を積んでいるにしては妙に軽かった』と」
その一文を読んだ瞬間、源次と新太は顔を見合わせた。
「軽いだと……!?」新太が呻く。
「ああ。兵糧に見せかけた、ただの藁だ」
最後のピースがはまった。疑念は、揺るぎない確信へと変わった。村人という第三者の、利害関係のない客観的な証言。それこそが、この情報の信憑性を裏付ける何よりの証拠だった。
兵たちの熱狂は最高潮に達している。「出陣だ!」「今度こそ仕留める!」という声が、二人の耳にも届く。
新太は源次を見つめた。その目は問いかけていた。「どうする」と。
源次の口元に、冷徹な笑みが浮かんだ。
「……罠だと分かっている場所に、わざわざ飛び込む馬鹿はいない」
彼はそう言うと、地図の上、武田の伏兵が潜む森を指で力強く叩いた。
「だがな、新太。狩人が罠を仕掛け、息を殺して獲物を待っている時こそが、その狩人自身が最も無防備になる瞬間だ」
新太の目が、驚きに見開かれた。
「まさか、お前……」
「そうだ」と源次は頷く。「罠にかかったふりをして、その罠を仕掛けた本人を狩る。これほど面白い漁はないだろう?」
彼は地図の上に新たな駒を置いた。それは、伏兵が潜む森の、さらに背後を突く位置だった。
「おとり部隊に気を取られている伏兵の背後を、お前の遊撃隊で突く。狩人が虎を待っているつもりが、気づけば背後から竜に喰われる。馬場信春の度肝を抜くには、これ以上の一手はない」
新太の全身に、武者震いが走った。それは恐怖ではない。自分たちの軍師が、敵の知略のさらに上を行く策を、今まさに描いてみせたことへの興奮だった。
「……面白い。最高に面白いじゃねえか!」
新太は槍を握り直し、その瞳には獣のような獰猛な光が宿っていた。
源次は立ち上がり、逸る兵たちに向かって静かに言い放った。
「今夜は動かん」
不満の声が上がりかけたが、彼はそれを一瞥で黙らせる。
「だが、夜明けと共に、本当の狩りを始める。獲物は小荷駄隊ではない。武田の赤備えそのものだ」
その言葉に、陣の空気は一変した。
ただの奇襲ではない。敵の罠の裏をかき、精鋭を叩く。その壮大で大胆不敵な作戦に、兵たちの心は恐怖を忘れ、燃え上がるような昂揚感に包まれた。
焚き火の火花が、夜空へと舞い上がる。
見えざる敵の罠は、今や井伊軍にとって、最高の獲物へと姿を変えていた。