第16節『小さな変化』
第16節『小さな変化』
その日は、朝から張り詰めた空気に包まれていた。
川岸には、領内から集められた人足や足軽が並び立ち、背後には土砂を運ぶ畚、杭を打ち込むための掛矢、そして縄や木材が整然と積まれている。湿った土の匂いが辺りを覆い、遠くでは農民の子らが心配そうに川面を覗き込んでいた。
誰もがざわついていた。
「……本当に水が引くのか?」
「潮の加減で、川が干上がるなど聞いたことがない」
「もし外れたら、徒労どころか命取りになるぞ」
半信半疑どころか、大半は疑いの眼差しであった。
川は依然として濁流をたたえ、昨夜の雨の影響でまだ水勢を保っている。人々の心は川と同じく、重く濁って揺れていた。
源次はそんな声を背に、ただ一人、空と川面を見つめていた。
空には雲間からかすかに光が差し、時折、風が頬を撫でる。彼の視線は水の流れではなく、その向こうにある「潮の理」を捉えていた。
(もうすぐだ……。必ず下がる。俺が知る限り、この刻限には川は呼吸をするように水を吐き出す。信じろ……!)
川岸から少し離れた場所には、直虎が立っていた。傍らには家臣たち。
中野直之は苦々しい表情で川を睨みつけ、低く吐き捨てる。
「これで外れたら、あの足軽の首だけでは済まさんぞ」
誰もが直虎の判断を試すような目を向けていたが、彼女はただ黙して源次を見つめていた。その眼差しは、不思議と揺らぎがない。
やがて刻限。
最初は誰も気づかなかった。川の音が少し弱まったように聞こえたのは、気のせいだと思われた。だが、しばらくして水面の流れが緩やかになり、川岸の石が少しずつ顔を出し始めると、どよめきが広がった。
「お……おおっ!」
「見ろ、川が……川が引いていくぞ!」
「本当に水が減っている……!」
驚きと畏怖の混ざった声が連鎖的に響き渡り、人々の視線が一斉に源次へと集まった。
源次はその瞬間、腹の底から声を張り上げた。
「今だ! 杭を打ち込め!」
その声は濁流に勝るほど鋭く、作業に立ち尽くしていた人足たちを動かした。
***
水が引き、川底の一部が現れる。泥の匂いがむっと立ち上り、ぬかるむ地面は足を取る。だが、源次の声が次々と飛んだ。
「掛矢を持て! 一番太い杭をここに打ち込め!」
「そこは地盤が緩い! もっと奥まで打ち込め!」
「畚の者ども、連携を崩すな! 土を絶やすな!」
最初はぎこちなかった動きが、次第に整っていく。掛矢の木槌が打ち下ろされる度に「ドン! ドン!」と腹に響く音が川岸に反響し、杭が泥の底へ沈んでいった。
源次はただ声を張るだけではなかった。
自らも泥に飛び込み、肩まで汚れながら掛矢を振るった。汗が混じった泥水が顔に流れ落ちる。だが、彼は息を荒げながらも声を絶やさない。
「漁で使う網を張る時と同じだ! 流れを読むんだ! こっちに杭を! 流れの分かれ目を押さえろ!」
漁師の経験から導き出される判断は驚くほど的確で、人足たちは次第に疑念を捨て、彼の指示を信じるようになった。
ある若い人足が叫ぶ。
「兄貴! ここはどうすりゃいい!?」
「そこは渦を巻く場所だ! 杭を二重に打て! 流れが変わる!」
言葉は迷いなく響き、作業は一気に加速した。
土を運ぶ者、杭を打つ者、泥を掻き出す者。全員の動きが一つの流れとなり、濁流を押し返すような勢いで普請は進んだ。
直虎は川岸から、その光景をじっと見ていた。
足軽のはずの源次が、誰よりも先頭で泥を被り、人々をまとめ、声を飛ばしている。その姿に、家臣たちの目も次第に変わっていった。
「……あれは……」
「ただの足軽ではないな」
「口だけでなく、体を張っている……」
彼らの囁きは、源次の背に届かぬほど掛矢の轟音にかき消された。
時間は刻一刻と過ぎていく。やがて川の流れに再び重さが戻り始めた。水面が揺れ、ゆっくりと膨らんでいく。
源次は空を仰ぎ、歯を食いしばった。
(……潮が戻ってくる。もう間がない! 今やれることを全て終わらせろ!)
最後の杭が打ち込まれる。掛矢が振り下ろされるたび、皆の喉が裂けるように声を上げた。
そして――潮が満ち、再び川の水が流れ込んだ時、そこには泥の中に沈む頑丈な杭の列が残されていた。
誰かが息を切らしながら叫んだ。
「……やった……! 間に合ったぞ!」
歓声が次々と広がり、川岸を揺らした。
疲労と達成感に塗れた人々の笑顔。泥まみれの手で肩を叩き合い、涙を浮かべる者までいた。
源次は膝に手をつき、荒い息を吐いた。
(……本当に……できた……!)
心臓は早鐘のように鳴っていたが、その奥に広がるのは確かな喜びだった。
***
作業を終え、夕刻。
川岸に静けさが戻ると、直虎が歩み出た。
泥にまみれた源次の前で立ち止まり、凛とした声を響かせる。
「見事であった、源次。そなたの知恵、井伊の役に立った」
その一言に、源次の胸が熱く燃え上がった。
(……直虎様に……褒められた……! 俺、やったんだ……!)
込み上げる歓喜を必死に抑え、深く頭を垂れる。
「もったいなきお言葉にございます」
直虎はそれ以上多くを語らず、静かに背を向けた。だが、去り際に傍らの中年の家臣へと小さく囁いた。
「あの男……ただの足軽にしておくには惜しいやもしれぬな」
その声を、源次の耳は確かに捉えた。
胸の奥で何かが震え、確信に変わる。
(俺の立場は……変わり始めている。小さな成功でも、必ず未来を動かす……!)
川のせせらぎが夕暮れに溶け、空に朱が広がっていった。
その色は、源次にとって新たな道の始まりを示す炎のように見えた。