第159節『罠』
第159節『罠』
武田軍本陣。篝火の影が陣幕を大きく揺らし、濃い煙の匂いがこもっていた。地図の上に散らばる木駒を前に、馬場信春は深く目を落とす。
「……補給路ばかり狙われる。しかも、必ず夜明け前。霧や雨を好み、退き際は素早い」
駒を指先で押しながら、低くつぶやく。敵の手口は理路整然としていた。無駄を削ぎ落とした刃のような鋭さ。そこに情熱や虚勢はなく、ただ冷徹な効率だけがあった。
「合理的すぎるな」
馬場の声は鉄のように硬く、しかし確信を帯びていた。敵を動かしているのは感情ではない。計算だ。ならば、その計算の土台を逆手に取る。最も効率的で、最も美味に見える餌をぶら下げれば、必ず喰いついてくる。
馬場は部下を呼び寄せ、厳命を下した。
「護衛を削った小荷駄隊を仕立てよ。荷駄の中身は空でよい。藁を詰め、外には兵糧の印をつけよ。場所は谷間だ。あの鼠どもが好む狭道へと向かわせろ」
ざわめく兵たちを、馬場の低い声がすぐに鎮めた。
「両翼の森には精鋭を伏せる。鼠一匹たりとも逃すな。……そして、小荷駄を指揮する者には命じよ。無能な指揮官を演じ、油断を見せよ。奴らの軍師を騙すのだ」
命令を受けた将たちは深く頷き、すぐさま配置へと散っていった。
「来るがよい、鼠ども……」
その呟きは低く、しかし鋭い牙を覗かせていた。
夜の野営地。井伊の陣は静けさに包まれていた。焚き火の赤い光が兵たちの顔を照らす中、斥候が駆け込んできた。息を切らし、声を震わせながら報告する。
「申し上げます! 敵の補給部隊を発見! 護衛はごく僅か、谷間にて無防備に野営をしております!」
その言葉に、周囲は一気に沸き立った。
「よし、今夜叩くぞ!」「今度こそ根絶やしにしてくれる!」
遊撃隊の兵士たちは歓声を上げ、槍の石突きを地に打ちつけて気勢を高める。新太もまた、槍を握り直し、その目に好戦的な光を宿した。
「源次。好機だ。……罠かもしれんがな。どうする?」
その声は低く抑えられていたが、獲物を前にした獣のような昂りを隠しきれていなかった。
だが、源次だけは動かなかった。焚き火の影の中、地図を睨み続ける。眉間には深い皺が刻まれ、背筋を悪寒が走る。
(……護衛が少ない? 谷間で無防備に野営? そんな馬鹿な……まるで『どうぞ襲ってください』と言っているようじゃないか)
(この時代の合戦において、補給路は生命線であり、その護衛は極めて厳重に行われるのが常識だ。ましてや、鬼美濃と恐れられる馬場信春が指揮する軍で、これほどの油断はあり得ない。史書にある彼の戦ぶりは、常に石橋を叩いて渡るような慎重さだったはずだ)
兵たちの期待が一斉に源次へ向けられる。だが彼の心は静かに、しかし激しく揺れていた。
(絶好の獲物……いや、罠か? けれど、もし見逃せば補給は続く。決断を間違えれば、新太も、仲間も死ぬ。……俺の判断ひとつで、直虎様から託された命が消える)
冷や汗が頬を伝う。彼は唇を噛み、沈黙の中で地図を睨みつける。
歓声と期待に包まれる中、ただ源次ひとりの眉間だけが、深く沈んでいた。